[1124]ここでいう一般信者とは、
punyoon
2005/7/6 9:40
助教師、世話人、普通の信者です。資格者は、給料もらってるので、直される側の人たちです。上の人たちが、自ら直るのを、待つのではなく、残ってる人たちは、「おれたちは、逃げずに、残ってる」などという、自己満足で、終わらず、するべきこと「霊的革命」から、逃げないで、立ち向かってほしいものです。おそらく、今、残ってる一般信者たちには、そういう、仕方でしか、教団に残っている信者の社会的意味はないです。
[1123]「一般信者による革命」=「幹部の間違いは、一般信者にしか、直せない」
punyoon
2005/7/6 9:03
>2万円ぐらいは、記念大祭でもっていかれるのです。このことをだけでも金集め集団
そうですんね。「なんで、こんなに、お金がかかるの?」と、最初、聞いたことがありましたが、「本部奉仕の人たちなどの、生活費になるの、あいがたいよ」などという、返答をもらいました。普通にやってると、月5万円は、すくなことも、かかってしまうようです。一年で、60万、それに、プラスして、献金などで、合計100万は、かかってしまいますね。毒牙に、かかると、もっと、かさむでしょうが。一年で、ひとり頭、約百万円。大体、何かの、専門学校に、通える、値段ですね。彼らは、「魂のお道」として、「霊的な勉強」を、積み上げてるということです。「永遠に、かかわるお道だから、ありがたたいわぁ」などは、橋本元支部長の、月次祭などでの口癖でしたが、「神=魂=永遠=絶対」という、宗教概念に、かかわるわけですから、それこそ、永遠に、財産を、投入しきって、現実的に、軽くなってくしかないのです。それを、まるきり、尺度の違う「霊的によくなる=運がよくなる」という、別次元の向上に、すりかえてしまうものなので、「宗教的解釈」の上では、なんでも、適合してしまうという、傍から見ると、「地獄のパチンコ台=怒涛の金食い虫」に、たかられてしまっているように、感じます。
>信者数が激減し、集金もおぼつかなくなっている現状の秀明
その分、とれるところから、とる。というふうに、変わってるのではないかと、推測しますが。神輿の重さが、変わらずに、担ぐ人数が、減れば、ひとりあたりの、背負う重量は、増えてしまうのではないかなぁとか。二つの巨大な神輿の「建設」は、終了しているので、あとは、「維持費」だけですから、少しは、必要経費が、減ってはいるのでしょうが。
>秀明会に属している方たちが、新体制になって、約4割
記念大祭の参拝をしなくなったという事実
最初から、それくらいの割合でしか、アピールできない内容しか、持ってなかったのかも。秀明的視点でいうと、「救われない魂」などということになるのですが、この「救われない」という、「呪い」を、「無効」にできてしまう、「無視」できてしまう人たちは、易々と、退会していってしまいます。会の前提=世界観に、合う形で、「幸せを祈る」ということの裏には、「会」のいうことを、きかないと、「救われない」という「呪い」が、存在し、「祈り」と「呪い」が、表裏一体に、なっているのが、古来から、脈々と、連なる「宗教の系譜」に、合致して、人間の作る「集団」の「浅はかさ」を露呈していて、悲しいところですね。源氏物語の世界から、「祈り=呪い」が、受け継がれてりる現代版リアル「リング」。私は、ある意味、「博物学的なフィールドワークの対象」かとも思います。彼らは、おもしろい。
>毎月 捻出するのに 四苦八苦といったところでしょう。その お金は 小山家や 幹部の給料、に 消えてしまっていることも 知らないで・・
こういう、下世話なところを、「直視」できる信者が、ふえてくればよいのです。教団に、信者=消費者が、お金を落さなければ、政府=幹部は、維持さえできない。だから、信者たちは、「買い控え」ならぬ、「献金控え」という「魂の浄化の購入」を、ストップすることで、幹部たちに対して、とてつもない「勢力」をもっているのだということを、自覚しなくてはいけないのです。今の時代は、選挙を、ボイコットするよりも、「買い控え」するだけで、政府へ現実的な、揺さぶりを、掛けられる、消費者が、主役の時代です。つまち、一枚一枚の、お札は、「信任の投票権」なのです。こういうところから、「一般信者」たちは、とてつもない「力」を、上層部に対して、有しているのだと、気づいて欲しい。
一般信者たちが、「会」の横暴にたして、まとまって、ストライキや、反抗するだけで、現腐敗幹部たちを、一掃でき、「霊的革命=離脱の神意=個人重視の信仰」は、可能だし、実行してしまわなくてはいけない、ということに、気づいて欲しい。「おひかりよりも、良心を!」です。「体制に対しての紐付きの神ではなく、胸の中に棲むその人の神様が大事」なのです。そういう、自覚的な、信者が、増えていけば、間違いを、正していけるのです。
信者たちは、幹部は、神に仕えてるので、自分で、自分を、直せると、勘違いしてますが、これは、一般信者たちの甘えです。人間は、自分で、自分を、人に、利や理が、あるようには、直せない。論議などの、フィードバックがあって、初めて、現実的な、変更を、行えるものなのです。会長氏や、幹部を、まともな、人たちに、できるのは、一般信者たちしか、いないのです。こいうことに、気づいている、少数の人たち、「ギルドさん」等が、でてきているので、期待大ではあるのです。
または、とっとと、捨てるです。捨てる人が、多くなれば、それだけで、幹部たちには、カウンターパンチになります。ただ、残る人たちは、私たちは、残ってるので、「救われる可能性がある」などと、安住するのではなく、秀明会のおかしいところ=幹部の腐敗は、一般信者=末端信者にしか、直せないのだと、責任と、自覚を、しっかりと、持ち、自分の教団に対しての「批判=批評」を、自分の目、自分の頭で、しっかり、作り上げるということは、してほしい。新体制とは、「霊的な革命」を、ひとりひとりが、自分に、対して、行わなければいけないのです。
「新体制=霊的革命=離脱の神意」とは、「おひかりよりも、自分の胸の中の良心(神)を、主にする、幹部や、明主様よりも、自分を、主にする、自主的な信仰」です。
各自、自分の中に、根付いてる「霊性=仏性=神性」が、「おひかり」とりも、尊い「良心=光=神」であることに、気づいて、「霊的価値観」を転覆しなくてはいけないのです。これが、「神のシナリオ」です。現実や、教団の状況や、み教えを、しかり、読めば、シナリオとして、しっかり、書いてあります。また、不整合や、余白は、自分で、書いてしまうこと、これすなわち、読む、なのです。
[1120]とりあえず、秀明とは距離をおいて下さい。
punyoon
2005/7/5 23:49
ギルドさんの、このスタンスに、大賛成です。
[1119]東日本匿名さんへ。
punyoon
2005/7/5 23:48
>悪いことなんか何も起きなかったですね。やはりあの世界は異常だったし常識も通用しませんね。
そうですね。民話の神隠しの里みたいな感じですね。普通に、目に見える、一般社会に、まぎれてるのに、心だけが、幽鬼の世界に、とらわれてしまったっていう、民間伝承な感じでした。エアポケットでしたね。
>個人への恩義よりも組織護持や明主への忠誠のほうが重要視されます。
大事なのは、組織よりも、個人です。ここが、転倒してしまっては、宗教の意味なんてありません。
>本当は本部参拝とか苦痛で負担だったんです。しかしお詫びや御気付け、浄霊できなくなることが怖かったんです。
そうですね。ここから、「批判の勇気」を持って、離脱の自由を、得るには、重力を、断ち切る、ロケットなみの起爆力が、必要でした。
>行かなくなってもう時間が大分経ちましたが運は逆に良くなりました
秀明の重力圏を、抜けると、本当に、何でもないことになりますね。余分な重りを、捨てれたというか、鎧を脱ぎ捨てたとうか、曇りというカテゴリー自体を、きれい、さっぱり、脱ぎきれるので、本当に、すきいりしますね。
[1118]「批判の勇気」=「離脱の神意」
punyoon
2005/7/5 23:38
>資格者クラスはこの問題に決して触れません。
話し合いが出来るのは助教師までです。
触れないんですね。完全に、中間管理職ですね。養われてしまってるから、身動きできないんですかね。給料もらって、生活の基盤を、握られてしまったら、霊魂だけでなく、経済までですから、完全に、「良心」の入る隙間もなく、上からの、指示の敷衍しか、できないのでしょうね。呼吸する、生身の身体をもった「体制」の権化というか、アンドロイドや、マネキンみたいなものかもですね。「触れない」=「反論しない」=「内部でだけで、反論が、屈折する」=「洗脳」っていう、この悪循環に、ヒビや、メスを、どこかで、入れられれば、いいんですけどね。
>(私にはもう、マイクは回してくれませんが。)
ここが、おかしいんですよね。内部で、そういう、反対意見に、しっかり、向き合ってくという、姿勢が、ないから、宗教としても、成長できないんですよね。ほかの、一般信者も、そういう状況を見て、「おかしい」と、おもわなければ、いけないし、いわなくてはいけない。宗教は、幹部や、会長や、神様のものではないんです。「一般信者のもの」なんです。「一般信者」が、体制ひっくるめて、心地よい状況にならなくてはいけないのに、幹部や、体制の「維持」だけのために、反対意見を封殺するなんてことは、あってはいけないのです。
>おかしいと気づいて離れる人、距離を置く人、まちがいを正そうとする人は邪神扱いです。今もなにも変わりません。
ここが、直らないと、いつまで経っても、同じですね。ここを、「一般信者」でさえも、個人のレベルから、直していかないと、結局、自分に、帰ってくるんです。ひとりひとりが、「会」の建前を、大事にしたり、「霊的」な建前を、大事にしたりするのではなく、「良心」を、大切にしていかなくてはいけないんです。幹部や、体制側が、「霊的自由」を、信者に与えるのではなく、一般信者側が、幹部や、体制側から、「霊的自由」を、獲得、または、奪還するのが、「新体制」なはずです。そのような「霊的革命」が、「離脱の神意」なのです。一般信者が、自分で、自分を、主役にしていかなくてはいけないのです。そのために、献金しちゃってるのではないでしょうか。資格者以上は、いわば「公僕」です。一般信者は、資格者以上の幹部たちを、使いこなさなければいけない。一般信者が、幹部を、使うのです。それには、「おひかり」よりも、「良心=自分の心=自分の胸の中の神様」を大切にする、「本当の信仰」を、一般信者のひとりひとりが、身につけなくてはいけません。「批判する勇気」を、一般信者のひとりひとりが、持たなくては、いけないのです。
>表の顔とは別の一面を見た男の助教師を殴り飛ばしています。
これがあるのだから、お祭りのときに、みんなで、かっこつけたり、きれいごとで、すまして、お茶をにごしてちゃ、だめなんです。「批判する勇気」を、持てない、一般信者の集まりで、「地上天国」の建設などできるわけがないのです。「批判」がないということは、「頭」がないということです。「頭」を、幹部や、「明主様」に、預けっぱなしでは、ダメに、決まってます。まず、「頭」と「神」を、自分の「頭」と「胸」に取り返すのが、基本です。
>新体制は梅原さんへのごますりです。マスコミを抑えるためにも梅原さんに協力してほしかった。カルトのイメージを消したかったのです。
梅原さんは、今でも、秀明に、協力されてるんでしょうか。「真善美」とか、ギリシア的な、理想的価値基準に、共感したような講話を、してたような気がしましたが、この内実を、どれだけ、知ってるのでしょうか。旧制高校生的な、いい意味での、無邪気さを持った方なのかなぁとは思いましたが、「隠された十字架」という著作では、法隆寺は、聖徳太子の血塗られた怨恨を、封じ込めるための「荒魂信仰」だ、という、形のエッセイ的なものでした。秀明の内実は、ドロドロの悪霊封じを、根底にする、泥臭いものです。その上に、氷山の一角として、ちょこんと、真善美や、地上天国が、浮いてる形です。オウムの事件から、ある種、文化人は、オウム的なものに対して、一度は、必ず、言及しています。梅原氏でも、現状や、内実が、わかれば、ご自分の、加担した、教団が、どのようなものかは、さすがに、わかるはずなのですが。
>オウムの次は秀明会だと言われてましたが、特捜部は動きませんでした。 巧妙にくぐり抜けています。
そうですね。公安からも、目をつけられてましたからね。くぐりぬけたのは、いいんですが、そのまま、問題が、密室化してしまった。
やはり、今、必要なのは、一般信者の人たちが、一人でも多く、「批判の勇気=霊的革命=離脱の神意=本当の新体制」を、行うことで、「おひかり=体制への服従」よりも、「良心=自分の胸中の神様」を、大切にする、宗教団体からみても、社会から見ても、「当たり前の常識」に、回帰することでしょう。そして、これは、ひとり、ひとりの信者が、そういう空気を、つくらなければダメでしょう。「方針」が、かわるまで、何もしないとか、「方針」が、かわってから、実は、私も、そう思ってたとか、尻馬に、乗る姿勢を、ひとり、ひとりが、改めない限り、秀明は、社会へと、対話可能な地平を、開いていけないでしょう。ギルドさんに、マイクを、回さない状況があるなら、無理にでも、まわさないといけない空気を、ひとりひとりの信者が、つくっていかなくてはいけないし、自分で、かえていかなくてはいけないのです。
>フラッシュバックして、ためらい、心のゆらぎが出ることがあります。
そうでしょうね。離れることによって、回路が、不快な記憶、不快な肉体感覚に、接続するように、習慣化=自動化されてます。意味や、言葉や、通路が、固定されてる状況です。それには、少しずつ、ご自分の必要とされるところまで、意味、言葉、記憶、身体を、ほぐすというか、自由にしていかれるのがいいでしょう。雲を掴むような話ですが。「詩的言語」用法といいますか、秀明での確定して、単純化している意味を、ほぐして、ありのままに、出会うみたいなことが、効くかもしれません。
>とりあえず、秀明とは距離をおいて下さい。
これは、大切ですね。距離を、置くことで、余白が、生まれます。そこで、固定された意味が、ゆるゆるほどけて、自分の意味が、ゆっくり、浮上してきます。そこで、ようやく、批評が、生まれ、自分の考えや、自由が、生まれてきます。そうすれば、ギルドさんのように、
>黒龍の秀明会から私を救ってくれた本当の神様。
ありがとう。
というふうに、「本当の神様」って、なんだろう、とう、問いや、その問いに対しての、自分なりの、答えに近づいていかれるのです。やはり、ギルドさんは、新体制に即して、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、自分の胸で感じ、信仰を検証し、「批判の勇気」を持ち、行動に移し、自分の正しいと思うことをすることによって、「離脱の神意=幹部の不正問題の解決」に着手し、「本当の神様=自分の良心=自分の胸に棲む神様=自分の心の声」に、かなう、信仰状況を、獲得されてきたのだと思います。
[1114]「おひかり」よりも、「良心」が、信仰の基本。
punyoon
2005/7/5 9:31
ギルドさんの場合、「おひかり」よりも、「良心=胸の中にいる神様」を、大事にしてるんだと、思います。ここが、新体制=不正問題解決の、ものすごい、起爆力になってくのだと、感じます。
[1113]エフェクト
punyoon
2005/7/5 9:16
「責任」について
>今までの間違いを認め、全ての汚い膿み(某幹部連中)を出しきらないといけない。
これを、どうしても、構造上、人のせいにしてしまってるんですよね。TOPをはじめ、幹部も、信者も。だから、対話不能感を、第三者に、与えてしまう。
問題が、浮上してきたら、ふつうは、ギルドさんのように、その問題が、上から、提示された問題で、なくても、吟味しなくては、まずいし。ギルドさんのように、自分を斬ったうえでないと、この問題は、斬りこんでいけないです。自分に、問題をひきつけたスタンスを持つことで、外部との対話可能なスタンスが、生まれてきますし、ギルドさんにおいては、実際、そうなってます。
「問題設定」について
>自分はどうして行きたいのか、自分で考えて自分から意思を持って御用していく人間でないと許されなくなる
これは、本当に、そうです。つまり、白紙です。まっさらな紙です。この白紙の原稿用紙に、なんらかの内容を記述していくには、問題設定能力が、必要なのです。
いわば、白紙というのは、「遠慮しないで、なんでも好きなことをやりなさい」といわれて、「これが、やりたい」といえることです。用意された、選択肢から、選ぶ「選択能力」ではなく、もとめられているのは、白紙の状態で、「これがやりたい」「これが欲しい」といえる「問題設定能力」です。
ここで、大事なのが、今までの「秀明会」のルールを、「白紙=遠慮しない」に、できるか、どうか、なのです。今までの「ルール」を、ちゃんと、消せないと、ギルドさんが、会の中で、異端だということなどになってしまうのです。
「自分はどうして行きたいのか、自分で考えて自分から意思を持って御用していく人間でないと許されなくなる」
これは、つまり、許される許されないかも、自分で決めろってことです。救われる、救われないを、「上」の判断や、神様の判断に、求めてはいけない。この許す許さないも、すでに、幹部や、「秀明会」自体も、持ってないということです。これを、しっかり、根付かせなくてはいけない。「許されなくなる」この言葉が、問題です。
「許さない」のは誰でしょう。そもそも、その「許さない人」に、その「許可、不許可の権限」を、与えたままでいいのでしょうか。これが、新体制の一番の問題で、今のところ、こページで、取り組んでる信者は、ギルドさん、ひとりです。
今までの古くなった、ルールを捨てて、新しい白紙ベース=ゼロベースで、「自分はどうして行きたいのか」を考えぬかれたから、ギルドさんは、「幹部の不正問題」に、着手できたのだと、考えます。
「対話可能性」について
>秀明会本部からも批判に対する反論の方法を組織として指導していないので、個人レベルでは到底反論などできない
「反論できない」つまり、「不正問題」に対して、「謝罪」できない。「対話」できない。社会側から、見れば、秀明は「異質」だし、秀明側から、見れば、社会が、「異質」だしで、「秀明信仰」を、介して接した場合、対話が不能な状況にある。
信者でも、もちろん、社会で働いているので、日常的なことに関しては、もちろん、話はできるが、「秀明信仰」を仲立ちにした場合、深くて長い溝ができてしまい、「幹部の不正問題」や「謝罪問題」が、まるで、進まない状況に陥ってしまう。
信者の人は、社会では、「相対性」、宗教では、「絶対性」という、二重性、二面性を、持った精神構造で、生きています。でなければ、紙に、宿った神様を「おひかり」として、大事にしたりは、できません。
社会に、反論できなくても、「秀明会」の中では、内側に閉じた「反論」だけが、しっかり、根付いている。これを、洗脳ともいえるし、「幹部の不正」ともいえる。沈黙している=反論できない、または、ギルドさんのように、会の不正を、正そうとしない、ということは、やはり、本当の意味で、新体制=白紙を、できてないということなのでしょう。ギルドさんの書き込み、見て思ったのですが、この「許す、許される」「救われる、救われない」「御心に、かなう、かなわない」のアンテナを、会の常識ではなく、外部の自由空間=セカイ=ウチュウに、伸ばして、そこから、キャッチできた「良心=神様的なもの」を、基盤に、信仰されていくのが、「対話可能な信仰者」を生んでいくのだと、感じました。
「反論」がかえってこない、「反省」がかえってこない、「対話不能」だ、という、やばい状況を、クリアするには、信者の人々が、少しでも、新体制を実地に、「信仰」することが、必要になるのでしょう。
ギルドさんは、多くの点で、「新体制」に、合致されている。自分で考え、旧弊のルールに、気づき、それを、乗り越え、白紙状態に、戻し、何に従い、何をすべきかと、考えたときに、幹部の不正問題へ着手し、しかも、「許される許されない」という、信仰の根本を、秀明の閉じた共同体でなく、「良心=自分の胸の中にいる観音様」に照らし合わせて、「御用=行動」する、という「離脱=自主独立」的な、領域まで、達しておられる。つまり、「対話可能」な人。問題が、あれば、話し合いの結果、問題解決に、向けて、軌道を修正、または、軌道の意味自体を、考えることのできる人として、「社会=第三者側」から、「信用」されるようになってます。
「信用」されることで、必要なのは、「対話可能」であることなんです。「信用」されないのは、「対話不能=反論ができないこと」なのです。
「社会側=第三者側」は、「論議」を通して、問題点を、詰めていくとともに、「対話不能」だけど、一点で、「対話可能」なのもだと、認めて、「グレーゾーン」を、広げていくことも、大切かと思いました。対話可能な「グレーゾーン」の代表が、ギルドさんだと思います。「秀明」の信者も、可能なかぎり、この「グレーゾーン」で、「新体制の自主的信仰」をすることで、「会」は、まともになってくかな?と思います。
「言語闘争」は、不毛だ、とのことで、沈黙してしまう。反論しなくなってしまう。ということでは、社会への負債は、どんどん、累積していきますし、「曇り」は、どんどん、増えていきますし、挙句の果てに、「秀明会」が、財政困難に、陥ってしまうと、「審判=神は、許さないよ」が、発令してしまうかもしれません。
だから、一般信者の人が、ギルドさんみたく、この「不毛」な「みたまの闘い」に、参加してくれれば、早めに、不毛の土地を開墾できる可能性が、出てくるかなぁとは、感じます。
まるきり、異質なエフェクト効果が、頭の中で、渦巻いてる、2者間で、一体、どのような一致=対話可能性を、導いていけるか、というと、やはり、ひとりでも多くの人が、古いエフェクトから、抜け出して、新しいエフェクトに、切り替えていくとことだと、思います。