今をときめくカルト宗教の思い出と、脱会時のバッドトリップ&HAPPYについて、殴り書きしていきます。うふ。


by punyoon100

よろこばしきこと、

わすれること。

だしたことによって、

わすれてました。
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# by punyoon100 | 2005-10-16 02:33

れれれの姉さん

[1142]祈りってなんでしょう。
punyoon
2005/7/10 7:45
>最後に助教師「人の幸せを祈りましょう。」
口先だけだって誰でも感じる。

信仰の基本は、祈りだと、秀明は、いってます。しかも、「祈り」によって、幸福になる。世界まで、救われると。「祈り」も、確かに、大切です。ただ、これを、広く、捉えすぎると、危ない点も、含んでいます。肉体を通過して、現実の表裏に、存在する神の存在が、より、ダイレクトになってくるからです。それなら、いいじゃないかと、信者の方は、思うかもしれませんが、マイナス面を、見ると、心が、ガラス張りになってしまうことです。「ガラス張り」とは、どういうことか。これは、神=岡田氏から、見ると、信者の心は、ガラス越しに、全て、見えるということです。これは、信者の人でも、まだ、そう思ってる人が、多いかなぁと思いますが、思ってない人は、別に、いいんですが。これは、実際に、どうかというより、その信者自身が、神から、「ガラス張り」のように、心を、見られてると思うことが、問題なのです。

その神は、岡田氏であり、秀明会なのです。逃げれませんね、反抗できませんね。自分で、怖くて、考えれなくなりますね。だって、相手は、全能の神で、何でも知ってるし、神の仕組みによって、深遠なるわざを、行っているのですから。謀反な心を、起すだけで、全て、見透かされて、交通事故に、遭うのではないか、こわい。だから、変なことがあっても、人を、批判せず、余計なことも、考えす、全ては神が、決めてくれること、ということで、ただ、「神のいうことをきく」これだけになってきますね。それで、その「神」とは、違う言葉が聞こえてきても、耳には、入らないし、批判をしちゃいけないので、自分自身を、批判的に、反省することができない。思うに、秀明の方々は、「批判」とうことのとられ方が、ものすごく、浅いし、申し訳ないのですが、低いのです。「批判」を、「悪口」だと、思ってる。叱られること、叱ることとしてしか、考えていない。それでは、何も、進展しない。「批判」とは、異なる視点を持って、対象を、検討するということです。そういう考察を経て、ようやく、方向が、少しは、リアルなましな方向に、向いていくのです。

主義主張は、いけない。批判は、いけない。人の間で、争いが、起こるから。こういうことを言って、よく、考えようとせず、本部奉仕に、上がって行ってしまった、身近な信者が、おりましたが、彼は、まだ、本部にいるようです。

結局、岡田氏は、主義主張はいけないといいつつ、自分は、しっかりと、神人合一なんだ、と自己主張してます。

宗教は、イズムです。宗教であるだけで、十分、主義主張なのです。そして、その主義主張を、外国語にすると、「カルト」になります。主義主張を、認められるのは、「神=岡田氏」にだけで、「信者」には、認めませんよ、ということです。つまり、考える必要はない、全部教えてあげる、言うことだけを信じてればいい、疑ってもいいけど、奇跡がおきちゃうから、あとは、全て、信じなさい。これが、秀明が、社旗問題を、起してしまった原因です。

「信者」と書いて「儲かる」とも読みます。一番、儲かるのは、お客さんを、信者にすることです。漢字に、残ってるくらいですから、昔、から、宗教の信者は、教団を、儲からせるための、役割が与えらていたということです。昔の関係というのは「王と奴隷」です。「専制君主」といいます。この政治体制では、国民が、秀明信者のような、役割を、与えられて、苦しめられていました。そこで、革命が、起こって、主権在民の「民主主義」が、生まれてきたのです。

祈りの対象が、「岡田氏=明主様=秀明神」のままでは、いつまでも、監視されてしまいす。人は、見ることができずに、一方的に、見られるだけという、関係におくだけで、「監視する人」がいなくても、十分、管理され、従順になってしまうものなのです。これが、「権力の構造」だと、フーコーという人が、言ってましたが、まさしく、この目に見えない「一点監視システム」が、秀明の「祈り」の裏側に、内臓されています。別に、宇宙や、世界に、足して、祈っても、いいかなぁとは、思いますが(趣味として)「明主様」に祈るということは、彼から、一方的に、見られている、見られてるということで、彼が、たとえ、いなくても、その人には、存在してしまうという、秀明の「権力機構」に、組み込まれてしまうことになります。

だから、必要なは、自分の中に、知らぬ間に、根付いてしまった「制度=システム=体制=信仰=祈り=神」の、洗い出し、再構成、脱構築です。

もう、すでに、いろいろな信仰的行為が、習慣化している人たちは、まず、その習慣を、洗いなおしてみる必要があります。習慣化している、というのは、自動化している、というkとです。いわば、機械化している、つまり、無意識でも、できるようになってる。無意識に、習慣でできるとこまで、言ってるということは、同時に、それが、「無意識」を、構成してるということです。これで、ちょっくら、辞めるか、と思った人が、なかなか、抜けれなくなる、「秘密」がるのです。習慣化=自動化することだけで、「秀明的世界観」は、肉体および、魂に、がっちり、根付いています。だから、「奇跡=魔法=祈り」も、起こるし、「お気付け=祟り=呪い」も、起こるし、「奇跡=呪い」から、逃げ切れなくなってしまう人も、多いのです。前向きされてるのだという方は、それでいいと思いますが、このことを、知っておくと、秀明会自体を改善していくときに、非常に有効な「知恵=知識=武器」にもなります。


[1141]ギルドさんへ。
punyoon
2005/7/10 7:02
秀明会を、救済してあげてください。


[1140]うーん。
punyoon
2005/7/10 6:58
これを敷衍すると、

>真の信仰とは言語行動が常識に外れないことを主眼としなければならない

「常識に外れないこと」となると、
秀明は、成立しなくてなってしまいます。
思うに、秀明って、「岡田茂吉」のファンダメンタリストなのかも。根本主義とか、原理主義。これを考えると、「おひかり」も、成立しないんですよね。「常識」で、考えると、岡田茂吉氏の書いた文字を、粗末にすると、お気付けがあるってのも。

宗教の常識は「霊」や「神」や「奇跡」を、認める常識ですが、普通は、ゆるーく、あってもなくても、別に、どっちでもいいよって感じで、あいまい、かつ、気楽な、距離で、おとぎ話程度に、考えておくものですが、「霊」や「神」や「奇跡」が、確実に、存在するってとこに、標準を、合わせてしまうのは、かなり、ファンダメンダリズムです。

人間の心理構造は、矛盾を、含みこむことだと、私は、思ってます。機械や、ロボットや、人工知能ではにので、善悪の基準というのは、状況の次元によって、変わるものだと、思います。球体に、X軸、Y軸、Z軸のそれぞれのプラスマイナスが、設定されてる感じで、ネコの目、天気のように、気分や、いうことも、かわる、だけど、何らかの、その人の「同一性」がある。そして、社会的ジャンルの、その人の、立ち居地によっても、傾向が、変わってくる。

で、岡田さんも、やっぱり、人間の思考として、明らかに、矛盾は、抱え込んでる。普通の心理規格だと、感じます。ただ、その常識は、ちょこっと、社会常識、しかも、古きよき時代の日本の道徳観に、足をつけていますが、その一点を、覗くと、完全に、宗教的思考に、手放しで、飛び込んでいます。公共広告機構とか、薬事法では、治ることが、確実に、確かめられてない商品に、「治る」とか、「良くなる」って、効能書きしてはいけなくて、「心理療法」や、「カウンセリング」でも、「絶対治る」とか、いっちゃいけなくて、そういうこといっていいのは、悪徳業者でも、かなり、戦闘的な業者だけで、なるべく、社会に、軸足をおいてる会社は、いかに、「絶対、よくなる、絶対、治る」ということを、いわずに、そう思わせるかに、苦心するものですが、社会と、切れてしまってるところって、結構、怖いもの、知らずに、「奇跡=薬以上の薬」=「絶対、治る」って、いえてしまうんですよね。だけど、信者さんに、いわせると、「治る」のが、「常識」らしく、この常識に、反発すると、「ヒステリー」を、起してしまう人が、多い。今の日本の常識では、「私の腹には、光の玉がある」という人はいません。


それを、「ある」といって、断言すれば、すごいのか、というと、それは、全然すごくないのですが、中には、「フォレストガンプ」で、知恵遅れのガンプが、意味なく、ひたすた、長距離を、走っているのを、見て、何かを、この人は、知っている=悟っているのでhないか、と勘違いして、「神=カリスマ」として、後ろを、走り出してしまう人も、いるということです。私も、そういう人だったのですが、さすがに、今は、「なんでも、わかる」など、断言できる人に、会うと、この人は、「わからない」ということがわかってない人なのだなと、判断して、距離を、置くようにしてます。それは、秀明の信者に、対してだけではありませんが。そういう「頼もしい人」に、無根拠によりかかることほど、危ないことはないと、さすがに、反省したからです。

人間は、「矛盾した生き物」です。それを、一番、教えてもらったのは、「岡田茂吉氏の、み教え」からでした。「常識」を大切にしろ、といっておいて、次の瞬間には、まるで「常識外れ」なことを、平気で言えるのです。人間は、数式で、論理的に、作られてるわけではありません。人の矛盾に、出会ったとき、私は、「岡田氏」を、思い出して、「人間って、そういうものなんだよ」と、自分にささやくと、あまり、怒りを、感じ続けずに、済むようなりました。おそらく、私の人生において、「困ったちゃん」の金字塔的サンプルは「岡田ちゃん」です。

あと、「精神世界」系が、好きな人は、やはり、「岡田茂吉氏」のような「あやしい世界」は、たまらないのではないでしょうか。それも、「あり」なのです。そして、それが、「信仰の自由」ということで、ほかの人の「自由」と、抵触さえしなければ、それは、守られるべき「権利」でもあるのです。ただ、この他の自由と抵触しないということが、非常に、大切なのです。

私は、私の自由と、「岡田氏の自由」が、ぶつかりあったので、おひかりを、破り捨てました。

岡田氏にも、言論の自由がありますし、信仰の自由があるので、それは、彼の「自由」だと思いますが、「私の書いたものを粗末にすると、お気付けがある」や「魂は浄霊で、曇りが、とれて、幸福になる」しかも、「神人合一」で、霊層界の181段目にいる、「絶対の最高神」だという、「岡田氏」の自由に、従うのに、途中で、飽きてしまいました。それは、彼の自由のために、私の「自由」が制限されてしまったからです。いわば、彼は、「私のいうことを、きなない」と、霊的に、魂を、未来永劫、「殺してやる」といってます。そして、「岡田茂吉氏」の「指導」に適合してる限り、お前には「自由」を認めてやろうと、「岡田氏」は言ってます。これが、岡田氏が、教祖言なるもので、語っている「常識」です。

「云うことを聞かなくては、お前の魂を、永久に、殺してやる」といってる人に、対して、私のすべきことは、その人を「霊的に殺すこと」でした。それは、私の頭の中で、「殺す」ということですが。別に、私が、殺したからといって、他の信者さんの「岡田氏」まで、殺せるわけではありません。

最後に、やったことは、自分の心の中での、自分の頭の中での「岡田氏」と問答でした。頭の中に、リアルに、存在していた「岡田氏=神」を、言葉=仮想上のリアルな刀で、斬り殺したのです。命を、握られた場合、その人の掌中の範囲で、いきていくことも、可能ですが、それが、嫌な人は、自衛手段としての「KILL≒斬る」も、必要なのです。根底の部分で、自分のことは、自分で、決める。表面上は、優柔不断でもよいのです。気を張ってる、疲れますので、ただ、命=魂を握られるような、不利な条件で、相手と、いつまでも、付き合うわけには、いかないのです。

>会長の話として、人の批判はしない。全ては神様が決めるのであって、人間が人を裁くのではないとのこと。

TOPが、こういってるということは、自分で、決めてないということです。つまり、責任があるのは、「神」である、ということです。自分=人間=会長は、自分で、決めてるわけではないので、自分で、責任を、おうことは、できません。何故なら、「神が、決めている」からです。

じゃ、その神の言葉を、「きみは、どうやって、聴いたのだね?」ということになるのですが、それは、なんとなく、「み教え」を、引用して、「地上天国建設」とうものに、故人「岡田氏」の「美術好き」などを、張り合わせて、「美術館建設」=「岡田氏のお心」などということになるのです。ここが、ややこしくて、まどるっこしいところですが。「み教え」=「神の言葉」なのですから、責任者は、「岡田氏」です。宗教のTOPというものは、その「神の言葉」の「解釈権」を、握るだけです。その「ボスの言葉」を、自分が、解釈して、民=信者に、御触れを出すので、TOPには、責任がないんです。実は、そこが、権力の発生源なのです。神という、「絶対の威光」を背景に、ただ、それを、伝えるだけということなので、人間、小山弘子を、超えた、「説得力」が備わってくるのです。いわば、「巫女」です。祭りは、政(まつりごと)、すなわち、「政治」です。映画を、見てても、古代の王国は、こういう形態、よくでてきますよね。あれです。あれと同じです。それが、現代にも、出現してるだけです。

自分を、神の傀儡に、見立てることで、実は、神を、腹話術の人形にすることができる。これが、宗教の権力構造です。しかも、迫真に、迫ってないといけない。「岡田茂吉氏」の精神構造で、見てきたように、心が、「霊」のほうに、思い切り引っ張られた、心理構造になっている。つまり、狂ってる。秀明で、一番、勉強したことは、まともそう、常識がありそうに、見える人でも、狂ってる人は、狂ってるんだ、ということです。その人の、心の、ふり幅が、プラス、マイナス、含めて、見えなければ、同意人かは、わかりません。友達として、仲良くすることはできますが、自分のボスとして、認めてあげることは、できません。何故なら、私のボスは、私だけだからです。

ここで、大切だと、思うことは、信者の人たちが、自分で、「み教え」の「解釈権」を持つことです。これを、秀明内で、公然と、獲得していく。この度合いによって、秀明の「カルト度」が、変わっていきます。本来は、「会長氏」と、同様の解釈権、ひいては、「岡田氏=神」と同様の解釈権が、必要です。「み教え」は、何で書かれていますか?「神語」ですか?「神語」で、読めるのでしょうか?神の光が文字からでている、とうことを、抜かして考えれば「日本語」で、かかれていますよね。だから、日本の信者さんは、拝読できるのです。英語に、翻訳しても、それは、人間の言葉ですよね。結局、宗教も、非宗教も、洗脳も、脱洗脳も、魔術も、科学も、錬金術も、「言葉」で、行うのです。フロイトは、いいました。「言葉は、魔術である」と。私は、秀明会を、見ていて、本当に、そう思います。「言葉」によって、人の頭の中に「霊主体従の世界」を描くこともできるのだ、と。

つまり、「解釈権」と「思考の自由度」を、今よりも、大幅に、認めさせること。「言葉の自由度」を、上げることです。わりと、フレンドリーなのが、救世教なのでしょうが、私には、やはり、おとぎ話に、みえてしまうのですが、それは、もう、その人の自由でしかありません。

私は、救世教の人に、こういうことを、書く気はありません。秀明には、一度、在籍して、縁があるからだけです。だからといって、秀明の人に、不幸せになって欲しいわけでも、ありません。また、積極的に、幸せになって、欲しいわけでもありません。それは、その人が、決めることなので、やりたいように、やればいいと思います。ただ、離れたいけど、「おひかり=神」が、邪魔になってしまった人に、ちょっとした、神祓い、悪魔祓いのヒントを、提供できたら、面白いなぁと、思うだけです。

>形式だけの秀勉だった。なんの為の秀勉か?

信者の人は、「神」じゃありません。会長も、極言すれば、信者なので、「神」じゃありません。「形式」を、クリエイトできるのは、それを書いた「神」だけができることです。つまり、極限すれば、宗教には、「形式」しか、存在しないのです。宗教は、「哲学=考える」をできません。許されているのは「形式の踏襲=信じる」だけです。それでも、ふり幅を、広げようと、頑張ると「神学」になります。ただ、それは、信仰の前提を、外してはいません。しかも、「神学」というのは、「永遠」や、「無限」や「神」を、論理的に、言葉で、究明しようとしたものです。「神の存在証明」なんてものさえ、キリスト教の昔の人は、書いてました。秀明というのは、ある種、古代のキリスト教のように、激しく、神に、縛られている教団です。かなり、思考の筋力を、強くしないと、なかなか、自由に、考えられたりできません。西洋の人ですら、2000年かけて、ようやく、少しずつ、キリスト教から、自由になりつつあるのです。

秀勉は、ただの言葉のバケツリレーです。秀明的にいえば、光に、触れる機会を、つくればよいだけで、カルト的にいえば、洗脳=催眠の恒常性の引き金を、継続して、条件つけるということだけです。

だkら、ギルドさんが、秀勉が、形式的なことに、腹を立てることは、正しいのです。それは、「神への解釈権」の向上に、つながるからです。「ボスとしての神」ではなく、「友達としての神」に、近づいてるからです。「神は、ジャイアンです、いじめっこです。殴られたら、殴り返しましょう。完全に、戦意を失ったとき、その人は、犬=パシリになってしまいます。だkら、もしも、脱会したい人で、迷っている人がいたら、「神に殴りかえすこと」です。しかも、相手が、戦意を、失うほど、徹底的に、叩きのめすのです。相手が、怯えて、従順な「犬の目」になるまで、手加減しないのが、コツです。これは、猿回しの、猿の調教にも、通じることです。

しっかり、おかしいことがあったら、怒りましょう。
自分の心の中の「岡田茂吉さん」に対して。秀明の「おかしいこと」の責任は、「み教え」である「岡田さん」にあるのです。そして、一個ずつ、墨で、消していけばよいのです。最後の審判は、「ある」と言われた、時期になかった。それには、うまいこと、すり抜ける「論理」を、秀明は、使いますが、実際なかった。なら、「最後の審判」に、かかわる、3項目は、最低でも、破り捨ててかまわない。それで、「岡田氏」が、お気付けがるというのなら、契約違反で、自己処罰してもらいましょう。自分でいいたことを、守らないのなら、「誠」の部分も、捨てていいでしょう。そして、そこまで、手を、つけたのなら、「文字を、粗末にするとお気付け(祟りがる」というのも、破り捨てていいでしょう。大切なのは、「岡田氏」に、しっかり、「ツッコミ」を、かましてあげることです。これが、神との対話=祈りというものの、本質でもあります。

なんてこと、書いてますが、ギルドさん、ひとつの参考に、過ぎませんので、ギルドさんには、ギルドさんお探求を続けて、秀明を、少しでも、「まとも」にしてあげて欲しいのです。
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# by punyoon100 | 2005-07-10 07:56

エロテロ

[1135]記念大祭に、参拝した信者の人びと、
punyoon
2005/7/8 23:46
2万8千人の方々が、すこしでも、問題点に、自覚的になるだけで、TOPを、動かせます。

ひとりひとりが、自分の教団の矛盾点に、自覚的になること、改善しようとすること、当事者意識をもって、向き合うこと、急務です。

[1133]ロンドン同時爆破テロ
punyoon
2005/7/8 23:20
 いやぁ、世の中、激しいっすね。
 くらくらきました。
 ハードボイルドで、タフな時代ですよね。
 昔は、戦場は、戦場って、確定されてたような、気もしますが、「テロ」だと、日常生活から、一瞬で、ぱくっと、口をあけた「死」に、唐突に、飲み込まれることもあるっていう、シビアな、環境と、隣り合わせでもあるんすね。

 ご冥福を、お祈りします。

きっと、ひとは、なんでもなく、ただ、平穏で、ささやかで、俗なかたちでも、何気なく、楽しく生きていきたい、だけなんだろうなぁ、と。それが、「爆弾」などで、一方的に、破壊されたときに、大義名分の「正義」が、やってくる。

で、テロの爆弾が、空爆に、変わって、「血」が出て、また、「血には、血をの、聖戦」としての「テロ」が、がぴょーんとなって、そのまま、「泥沼」になるという人も、いれば、テロリストへの資金調達網が、規制によって、寸断されてくことで、最近、「癌」への対処法が、進んでるのと同じように「テロ」も、絶滅できる、いう人も、おったような。

で、社会側から見た秀明の「罪」っていうのは、「地上天国建設」=「理想」=「大義名分」によって、平穏な一般人の自由な心地よさを、壊してしまったことで、しかし、それでも、「奇跡=魔法」によって、「幸せ=感謝」な人もいて、秀明側から見ると社会が与えた「罪」というのは、「神の正義」なので、「罪」じゃないことになってるので、根本的な反省が、生まれようがない。

ということで、脱会者の怒りには、「火」が付いているのだけど、さらに大きく見てみると、社会的な「法」によっては、秀明の「罪」は、法によって、ぶっちぎりの「罪」には、認定されてないので、社会制裁としての「罰」が、未だ、与えられていない、というのが、現状で、結局、「罪と罰」の確定作業は、「草の根」運動に、なってしまっていて、とゆー、すげー、すれ違いな、知恵の輪、メビウスの輪みたいな、ややこしい状況が、出現していたりして。


武ゆかたさんの「奴らに罰を与えよう!!」
って、新鮮だなぁって、私が、感じたのは、
カラッとした、明るさがあるからかもしれないです。
「恨み」ではなく、シンプルな「怒り」だから、
昇華されて、爽やかな気がする。
「罰」かぁ、何かが、明確になる気もする。
「罪と罰」うーん。

秀明の、外部には、やはり、こういう、意識の集まりが、
厳然と、存在しますね。「謝罪」よりも、「罰」のほうが、爽やかなスポーツ感が、でてくるのかも。

「みんなの力で、刑法と競馬法を改正」
こういう、明確な、「外圧」が、出現するのも、
いいのかもなぁ。

団体規制法でしたっけ、「大量虐殺」をした集団という条件で、「オウム」を、狙い撃ちしたのは。

あと、単純に、考えると、今の信者は、普通に働いているので、ずっと、御用をしていたときと、違って、「給料」は、入るので、出費は、多くなっても、ぎりぎり、食ってくことは、可能で、ってなると、今、残ってる人たちは、死んでしまうまで、「秀明信仰」やりきってしまうことは、原則的に、可能で、しかも、結婚して、子供ができれば、「秀明の血筋」は、また、続いてしまうわけで、「利己的な遺伝子」は、生き残ってしまったりして、エンドレスなんかなぁと思ったり。オウムや、イスラームのように。

で、現役信者のギルドさんみたく、信仰しながら、反秀明の立場をとる人もいて、会の中では、少数派のようだけど、氷山の一角で、その不満の層は、けっこう、広い感じも、受け、仮に、うまく改革派の数がふえたとしても、逆に、反体制の人が多くなることで、体制を支えることに、意味が、でてきちゃう人もでてきて、御用することに、今まで以上に、燃えてしまったりして、規模が、縮小しても、芯の強い、突然変異みたいのが、出ちゃったりして、エンドレスになってしまう可能性もあるかもしれないけど、

「罰」=「外圧」の設定と、「内部改革」=「内圧」の設定が、必要なのだろうと。

ぶっちゃけ、新興宗教って、健常者だけでなく、身体や精神に、ハンデを持ってる人たちも、いるので、そういう人たちをも、お世話し、人間関係を、築いている、という点では、ある種の、受け皿になっていたりもして、河合隼雄がいってたけど、新興宗教には、できたら、はまらないほうがいいけど、統合失調症の人など、入院していたり、家族以外、誰からも相手にされないような、状況が、あったりすると、どん底は、どん底でも、新興宗教のどん底の方が、前の、どん底よりも、ましに、見えたときがあったなんて、ときも、あったりして。

分裂病や、精神病の、カウンセリングというのは、結局、何か、話すというのよりも、ただ、場を共有するだけで、治っていったりもして、そう、考えると、「奇跡」というよりも、単純に、人間の「自然治癒力」を、向かいあって、手を、かざすという、形式にして、日々お互いに「のほほんオーラ」を交し合うということを、セットにしてるだけだけど、実際、効果は、あるにはあるのだが、ただ、これに、医学をも、超えた「意味づけ」をしてしまい、必要以上の「価値」を与えてしまったので、「間違い」が、起こってしまった。

信者は、こういう「ゆるい感謝空間」に、浸っているので、「詐欺だ」と、頭ごなしにいっても、馬耳東風だったりもするので、確かに、彼らは、「異質」ではあるのだが、彼の「異質」な世界の前提に、立って、心の動きを、類推して、関わることも大切かなぁとも、思ったりして。しかも、その「異質」は、彼らにとっては、「異質」ではなく、いたって、「当たり前な常識」になってしまってるのだから。

じゃ、何が、あかんのかねってなったら、「感謝を要求してしまうこと」これだな。「必要以上の感謝を要求してしまったこと」。「感謝を待てなかったこと」「永久にでも、感謝を待てなかったこと」(このページでは、当たり前のことっすね)。

ぶっちゃけ、いえば、「おひかり」なくても、人間が、近距離で、手をかざしたりしてれば、なんらかの「気」で、よくなったりもします。これは「当たり前のこと」です。不思議じゃないです。「紙」は、基本的に、関係ありません。それは、「茶道」みたいなもので、「岡田氏」が、形式を、作ってみただけで、「神」の力は、「紙」にあるのではなく、もしも、そんあ「自然治癒力」があるのだとしたら、もとから、人間に、備わっているのです。すりむいても、つば、つけときゃ、治るし、再生能力は、もともと、人体に、備わっています。「おひかり=紙」は、「茶道の茶碗」みたいな単なる「飾り」なんです。この世に不思議なことなんて、ありません。

なんで、こんな、グダグダ、長いのかというと、「外圧=罰法」だけだと、片手落ちだと思うからです。何故、「アンチカルト」のページが、存続してるかというと、未だ、「秀明」への「不平不満」「怒り」が、社会に、漂ってきているからです。つまり、「信者」の中には、困ってる人、困らせられてる人がいるからです。
「限界」ということを、直視すること。その点で、人と、近距離で、向き合う「自然治癒」的な「のほほん時間」を過ごせばいい。そこに、大義名分を、結びつけ、「感謝を、自分から、要求しないこと」

もしも、ちゃんと、「会」を存続させていきたいなら、「内部規制」。幹部でなく、一般信者が、「上」の行きすぎを、しっかり、監督できるようにする。「金」の流れも、掴めるようにする。「体制」=「人間の作った組織」なんだとおうことを、直視して、その内部メカニズムに、自分たちで、「メス」を入れる。

これがないと、「外圧=罰法」は、単なる「空爆」に、終わってしまう。秀明が、カルト的「非常識」を、心理的に、自分で、気づかぬままに垂れ流してしまという「テロ」は、ずっと、続いてしまう。「会」が、横暴だ、もう、自分には、必要ないのに、「地獄」だ、
「天国」だ、「曇り」だ、「先祖」だと、うるさいなどという、苦情が、ネット上や、消費者生活センターを、飛び交うなどという「苦情=テロ実施後の被害」ことが、社会の片隅に、ずっと、伏流しつづけてしまう。

で、それを、聞くと、やはり、関係ない、外部の人間だって、「不快」に思う。まだ、「カルト」なのかと。「労働基準法」ならぬ「御用基準法」を、一般信者は、設定して、権力からの「横暴」から、自分で、自分の身を守り、他の信者にも、下手な「負荷」を与えないということを、しっかりやらない限り、自分たちの「宗教」を、守ることは、できなくなってしまう。

「平和」という、大義名分よりも、日常のささいな「平和」に、力点を置いて、それを、大切に守り抜くこと。これが、大切だと思う。信者でも、ささいな自分の平和を、蔑ろにしてしまうということは、結局、社会や、世界を蔑ろにしてしまうことにも、つながることがある。

信者の人たちの中で、やめる気がない、続けたい、という人たちは、「大義」が、飢えていても、変に、餌を、やらない、与えさせない、という厳しさを持った方がいいと思う。

それで、たとえ、「大義≒お上」が死んでも、ちゃんとした、信仰、神は、心の中に、残るはずだと、感じる。

本当の意味で、「日常に還る」というか、絶対に、「日常」を飛び越して、「大義=地上天国=献金=御用=お上の言葉」に飛びつかない。信仰するなら、秀明が、滅んでも、自分の胸に、神が残るような、姿勢でやってほしい。おひかりが、なくても、神が、胸にいるような、姿勢をもってほしい。

ギルドさんみたく、余分な、横暴を、無視しない、信者が、ふえれば、もっと、社会に、対しての精神的な排気ガスは、減ると思う。で、ミントさんみたいに、会のおかしいとこを、直視し、それでも、続けていこうという、人たちは、それでいいんじゃないかと個人的には、思うのですが、会の欠点を、直視し、考える、信者の増加は、大切だと思うのです。前、あった、信仰2世の子の疑問のように、何故、このページは、批判をしてるのかと、真摯な書き込みがあったり、それで、その批判を、受け入れられなくても、たとえ、続けていくにせよ、信者が、自分の組織の問題点を自覚する、直視する、って大事だと、思うのです。やはり、抜ける人が、多くても、まだ、続ける人は、続けるでしょうし、それなら、その続けるなら、続けるで、問題点を、ずっと、意識しつづける、考え続ける、改善しようと、努力しつづける、とうことが、目の前の、自然農法や、参拝よりも、増して、必要だと、感じたりします。


[1132]おめでとうございます。
punyoon
2005/7/8 23:18
よかったですね。

なんか、熱い風が、吹いてますね。

いい兆候ですね。

あ、みなさん、ちょっとしたら、わたし、長めの、書き込みをしてしまうようなのですが、うーん、もしも、ひいてしまうようなとこがあったら、スルーしてください。
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# by punyoon100 | 2005-07-10 07:52

砂漠で、鯛を釣る

[1124]ここでいう一般信者とは、
punyoon
2005/7/6 9:40
助教師、世話人、普通の信者です。資格者は、給料もらってるので、直される側の人たちです。上の人たちが、自ら直るのを、待つのではなく、残ってる人たちは、「おれたちは、逃げずに、残ってる」などという、自己満足で、終わらず、するべきこと「霊的革命」から、逃げないで、立ち向かってほしいものです。おそらく、今、残ってる一般信者たちには、そういう、仕方でしか、教団に残っている信者の社会的意味はないです。


[1123]「一般信者による革命」=「幹部の間違いは、一般信者にしか、直せない」
punyoon
2005/7/6 9:03
>2万円ぐらいは、記念大祭でもっていかれるのです。このことをだけでも金集め集団

そうですんね。「なんで、こんなに、お金がかかるの?」と、最初、聞いたことがありましたが、「本部奉仕の人たちなどの、生活費になるの、あいがたいよ」などという、返答をもらいました。普通にやってると、月5万円は、すくなことも、かかってしまうようです。一年で、60万、それに、プラスして、献金などで、合計100万は、かかってしまいますね。毒牙に、かかると、もっと、かさむでしょうが。一年で、ひとり頭、約百万円。大体、何かの、専門学校に、通える、値段ですね。彼らは、「魂のお道」として、「霊的な勉強」を、積み上げてるということです。「永遠に、かかわるお道だから、ありがたたいわぁ」などは、橋本元支部長の、月次祭などでの口癖でしたが、「神=魂=永遠=絶対」という、宗教概念に、かかわるわけですから、それこそ、永遠に、財産を、投入しきって、現実的に、軽くなってくしかないのです。それを、まるきり、尺度の違う「霊的によくなる=運がよくなる」という、別次元の向上に、すりかえてしまうものなので、「宗教的解釈」の上では、なんでも、適合してしまうという、傍から見ると、「地獄のパチンコ台=怒涛の金食い虫」に、たかられてしまっているように、感じます。

>信者数が激減し、集金もおぼつかなくなっている現状の秀明

その分、とれるところから、とる。というふうに、変わってるのではないかと、推測しますが。神輿の重さが、変わらずに、担ぐ人数が、減れば、ひとりあたりの、背負う重量は、増えてしまうのではないかなぁとか。二つの巨大な神輿の「建設」は、終了しているので、あとは、「維持費」だけですから、少しは、必要経費が、減ってはいるのでしょうが。

>秀明会に属している方たちが、新体制になって、約4割
記念大祭の参拝をしなくなったという事実

最初から、それくらいの割合でしか、アピールできない内容しか、持ってなかったのかも。秀明的視点でいうと、「救われない魂」などということになるのですが、この「救われない」という、「呪い」を、「無効」にできてしまう、「無視」できてしまう人たちは、易々と、退会していってしまいます。会の前提=世界観に、合う形で、「幸せを祈る」ということの裏には、「会」のいうことを、きかないと、「救われない」という「呪い」が、存在し、「祈り」と「呪い」が、表裏一体に、なっているのが、古来から、脈々と、連なる「宗教の系譜」に、合致して、人間の作る「集団」の「浅はかさ」を露呈していて、悲しいところですね。源氏物語の世界から、「祈り=呪い」が、受け継がれてりる現代版リアル「リング」。私は、ある意味、「博物学的なフィールドワークの対象」かとも思います。彼らは、おもしろい。


>毎月 捻出するのに 四苦八苦といったところでしょう。その お金は 小山家や 幹部の給料、に 消えてしまっていることも 知らないで・・

こういう、下世話なところを、「直視」できる信者が、ふえてくればよいのです。教団に、信者=消費者が、お金を落さなければ、政府=幹部は、維持さえできない。だから、信者たちは、「買い控え」ならぬ、「献金控え」という「魂の浄化の購入」を、ストップすることで、幹部たちに対して、とてつもない「勢力」をもっているのだということを、自覚しなくてはいけないのです。今の時代は、選挙を、ボイコットするよりも、「買い控え」するだけで、政府へ現実的な、揺さぶりを、掛けられる、消費者が、主役の時代です。つまち、一枚一枚の、お札は、「信任の投票権」なのです。こういうところから、「一般信者」たちは、とてつもない「力」を、上層部に対して、有しているのだと、気づいて欲しい。

一般信者たちが、「会」の横暴にたして、まとまって、ストライキや、反抗するだけで、現腐敗幹部たちを、一掃でき、「霊的革命=離脱の神意=個人重視の信仰」は、可能だし、実行してしまわなくてはいけない、ということに、気づいて欲しい。「おひかりよりも、良心を!」です。「体制に対しての紐付きの神ではなく、胸の中に棲むその人の神様が大事」なのです。そういう、自覚的な、信者が、増えていけば、間違いを、正していけるのです。

信者たちは、幹部は、神に仕えてるので、自分で、自分を、直せると、勘違いしてますが、これは、一般信者たちの甘えです。人間は、自分で、自分を、人に、利や理が、あるようには、直せない。論議などの、フィードバックがあって、初めて、現実的な、変更を、行えるものなのです。会長氏や、幹部を、まともな、人たちに、できるのは、一般信者たちしか、いないのです。こいうことに、気づいている、少数の人たち、「ギルドさん」等が、でてきているので、期待大ではあるのです。

または、とっとと、捨てるです。捨てる人が、多くなれば、それだけで、幹部たちには、カウンターパンチになります。ただ、残る人たちは、私たちは、残ってるので、「救われる可能性がある」などと、安住するのではなく、秀明会のおかしいところ=幹部の腐敗は、一般信者=末端信者にしか、直せないのだと、責任と、自覚を、しっかりと、持ち、自分の教団に対しての「批判=批評」を、自分の目、自分の頭で、しっかり、作り上げるということは、してほしい。新体制とは、「霊的な革命」を、ひとりひとりが、自分に、対して、行わなければいけないのです。

「新体制=霊的革命=離脱の神意」とは、「おひかりよりも、自分の胸の中の良心(神)を、主にする、幹部や、明主様よりも、自分を、主にする、自主的な信仰」です。

各自、自分の中に、根付いてる「霊性=仏性=神性」が、「おひかり」とりも、尊い「良心=光=神」であることに、気づいて、「霊的価値観」を転覆しなくてはいけないのです。これが、「神のシナリオ」です。現実や、教団の状況や、み教えを、しかり、読めば、シナリオとして、しっかり、書いてあります。また、不整合や、余白は、自分で、書いてしまうこと、これすなわち、読む、なのです。

[1120]とりあえず、秀明とは距離をおいて下さい。
punyoon
2005/7/5 23:49
ギルドさんの、このスタンスに、大賛成です。


[1119]東日本匿名さんへ。
punyoon
2005/7/5 23:48
>悪いことなんか何も起きなかったですね。やはりあの世界は異常だったし常識も通用しませんね。

そうですね。民話の神隠しの里みたいな感じですね。普通に、目に見える、一般社会に、まぎれてるのに、心だけが、幽鬼の世界に、とらわれてしまったっていう、民間伝承な感じでした。エアポケットでしたね。

>個人への恩義よりも組織護持や明主への忠誠のほうが重要視されます。

大事なのは、組織よりも、個人です。ここが、転倒してしまっては、宗教の意味なんてありません。

>本当は本部参拝とか苦痛で負担だったんです。しかしお詫びや御気付け、浄霊できなくなることが怖かったんです。

そうですね。ここから、「批判の勇気」を持って、離脱の自由を、得るには、重力を、断ち切る、ロケットなみの起爆力が、必要でした。

>行かなくなってもう時間が大分経ちましたが運は逆に良くなりました

秀明の重力圏を、抜けると、本当に、何でもないことになりますね。余分な重りを、捨てれたというか、鎧を脱ぎ捨てたとうか、曇りというカテゴリー自体を、きれい、さっぱり、脱ぎきれるので、本当に、すきいりしますね。


[1118]「批判の勇気」=「離脱の神意」
punyoon
2005/7/5 23:38
>資格者クラスはこの問題に決して触れません。
話し合いが出来るのは助教師までです。

触れないんですね。完全に、中間管理職ですね。養われてしまってるから、身動きできないんですかね。給料もらって、生活の基盤を、握られてしまったら、霊魂だけでなく、経済までですから、完全に、「良心」の入る隙間もなく、上からの、指示の敷衍しか、できないのでしょうね。呼吸する、生身の身体をもった「体制」の権化というか、アンドロイドや、マネキンみたいなものかもですね。「触れない」=「反論しない」=「内部でだけで、反論が、屈折する」=「洗脳」っていう、この悪循環に、ヒビや、メスを、どこかで、入れられれば、いいんですけどね。


>(私にはもう、マイクは回してくれませんが。)

ここが、おかしいんですよね。内部で、そういう、反対意見に、しっかり、向き合ってくという、姿勢が、ないから、宗教としても、成長できないんですよね。ほかの、一般信者も、そういう状況を見て、「おかしい」と、おもわなければ、いけないし、いわなくてはいけない。宗教は、幹部や、会長や、神様のものではないんです。「一般信者のもの」なんです。「一般信者」が、体制ひっくるめて、心地よい状況にならなくてはいけないのに、幹部や、体制の「維持」だけのために、反対意見を封殺するなんてことは、あってはいけないのです。

>おかしいと気づいて離れる人、距離を置く人、まちがいを正そうとする人は邪神扱いです。今もなにも変わりません。

ここが、直らないと、いつまで経っても、同じですね。ここを、「一般信者」でさえも、個人のレベルから、直していかないと、結局、自分に、帰ってくるんです。ひとりひとりが、「会」の建前を、大事にしたり、「霊的」な建前を、大事にしたりするのではなく、「良心」を、大切にしていかなくてはいけないんです。幹部や、体制側が、「霊的自由」を、信者に与えるのではなく、一般信者側が、幹部や、体制側から、「霊的自由」を、獲得、または、奪還するのが、「新体制」なはずです。そのような「霊的革命」が、「離脱の神意」なのです。一般信者が、自分で、自分を、主役にしていかなくてはいけないのです。そのために、献金しちゃってるのではないでしょうか。資格者以上は、いわば「公僕」です。一般信者は、資格者以上の幹部たちを、使いこなさなければいけない。一般信者が、幹部を、使うのです。それには、「おひかり」よりも、「良心=自分の心=自分の胸の中の神様」を大切にする、「本当の信仰」を、一般信者のひとりひとりが、身につけなくてはいけません。「批判する勇気」を、一般信者のひとりひとりが、持たなくては、いけないのです。

>表の顔とは別の一面を見た男の助教師を殴り飛ばしています。

これがあるのだから、お祭りのときに、みんなで、かっこつけたり、きれいごとで、すまして、お茶をにごしてちゃ、だめなんです。「批判する勇気」を、持てない、一般信者の集まりで、「地上天国」の建設などできるわけがないのです。「批判」がないということは、「頭」がないということです。「頭」を、幹部や、「明主様」に、預けっぱなしでは、ダメに、決まってます。まず、「頭」と「神」を、自分の「頭」と「胸」に取り返すのが、基本です。

>新体制は梅原さんへのごますりです。マスコミを抑えるためにも梅原さんに協力してほしかった。カルトのイメージを消したかったのです。

梅原さんは、今でも、秀明に、協力されてるんでしょうか。「真善美」とか、ギリシア的な、理想的価値基準に、共感したような講話を、してたような気がしましたが、この内実を、どれだけ、知ってるのでしょうか。旧制高校生的な、いい意味での、無邪気さを持った方なのかなぁとは思いましたが、「隠された十字架」という著作では、法隆寺は、聖徳太子の血塗られた怨恨を、封じ込めるための「荒魂信仰」だ、という、形のエッセイ的なものでした。秀明の内実は、ドロドロの悪霊封じを、根底にする、泥臭いものです。その上に、氷山の一角として、ちょこんと、真善美や、地上天国が、浮いてる形です。オウムの事件から、ある種、文化人は、オウム的なものに対して、一度は、必ず、言及しています。梅原氏でも、現状や、内実が、わかれば、ご自分の、加担した、教団が、どのようなものかは、さすがに、わかるはずなのですが。


>オウムの次は秀明会だと言われてましたが、特捜部は動きませんでした。 巧妙にくぐり抜けています。

そうですね。公安からも、目をつけられてましたからね。くぐりぬけたのは、いいんですが、そのまま、問題が、密室化してしまった。

やはり、今、必要なのは、一般信者の人たちが、一人でも多く、「批判の勇気=霊的革命=離脱の神意=本当の新体制」を、行うことで、「おひかり=体制への服従」よりも、「良心=自分の胸中の神様」を、大切にする、宗教団体からみても、社会から見ても、「当たり前の常識」に、回帰することでしょう。そして、これは、ひとり、ひとりの信者が、そういう空気を、つくらなければダメでしょう。「方針」が、かわるまで、何もしないとか、「方針」が、かわってから、実は、私も、そう思ってたとか、尻馬に、乗る姿勢を、ひとり、ひとりが、改めない限り、秀明は、社会へと、対話可能な地平を、開いていけないでしょう。ギルドさんに、マイクを、回さない状況があるなら、無理にでも、まわさないといけない空気を、ひとりひとりの信者が、つくっていかなくてはいけないし、自分で、かえていかなくてはいけないのです。

>フラッシュバックして、ためらい、心のゆらぎが出ることがあります。

そうでしょうね。離れることによって、回路が、不快な記憶、不快な肉体感覚に、接続するように、習慣化=自動化されてます。意味や、言葉や、通路が、固定されてる状況です。それには、少しずつ、ご自分の必要とされるところまで、意味、言葉、記憶、身体を、ほぐすというか、自由にしていかれるのがいいでしょう。雲を掴むような話ですが。「詩的言語」用法といいますか、秀明での確定して、単純化している意味を、ほぐして、ありのままに、出会うみたいなことが、効くかもしれません。

>とりあえず、秀明とは距離をおいて下さい。

これは、大切ですね。距離を、置くことで、余白が、生まれます。そこで、固定された意味が、ゆるゆるほどけて、自分の意味が、ゆっくり、浮上してきます。そこで、ようやく、批評が、生まれ、自分の考えや、自由が、生まれてきます。そうすれば、ギルドさんのように、

>黒龍の秀明会から私を救ってくれた本当の神様。
ありがとう。 

というふうに、「本当の神様」って、なんだろう、とう、問いや、その問いに対しての、自分なりの、答えに近づいていかれるのです。やはり、ギルドさんは、新体制に即して、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、自分の胸で感じ、信仰を検証し、「批判の勇気」を持ち、行動に移し、自分の正しいと思うことをすることによって、「離脱の神意=幹部の不正問題の解決」に着手し、「本当の神様=自分の良心=自分の胸に棲む神様=自分の心の声」に、かなう、信仰状況を、獲得されてきたのだと思います。


[1114]「おひかり」よりも、「良心」が、信仰の基本。
punyoon
2005/7/5 9:31
 ギルドさんの場合、「おひかり」よりも、「良心=胸の中にいる神様」を、大事にしてるんだと、思います。ここが、新体制=不正問題解決の、ものすごい、起爆力になってくのだと、感じます。


[1113]エフェクト
punyoon
2005/7/5 9:16
「責任」について
>今までの間違いを認め、全ての汚い膿み(某幹部連中)を出しきらないといけない。

これを、どうしても、構造上、人のせいにしてしまってるんですよね。TOPをはじめ、幹部も、信者も。だから、対話不能感を、第三者に、与えてしまう。

問題が、浮上してきたら、ふつうは、ギルドさんのように、その問題が、上から、提示された問題で、なくても、吟味しなくては、まずいし。ギルドさんのように、自分を斬ったうえでないと、この問題は、斬りこんでいけないです。自分に、問題をひきつけたスタンスを持つことで、外部との対話可能なスタンスが、生まれてきますし、ギルドさんにおいては、実際、そうなってます。

「問題設定」について
>自分はどうして行きたいのか、自分で考えて自分から意思を持って御用していく人間でないと許されなくなる

 これは、本当に、そうです。つまり、白紙です。まっさらな紙です。この白紙の原稿用紙に、なんらかの内容を記述していくには、問題設定能力が、必要なのです。

 いわば、白紙というのは、「遠慮しないで、なんでも好きなことをやりなさい」といわれて、「これが、やりたい」といえることです。用意された、選択肢から、選ぶ「選択能力」ではなく、もとめられているのは、白紙の状態で、「これがやりたい」「これが欲しい」といえる「問題設定能力」です。

ここで、大事なのが、今までの「秀明会」のルールを、「白紙=遠慮しない」に、できるか、どうか、なのです。今までの「ルール」を、ちゃんと、消せないと、ギルドさんが、会の中で、異端だということなどになってしまうのです。

「自分はどうして行きたいのか、自分で考えて自分から意思を持って御用していく人間でないと許されなくなる」

 これは、つまり、許される許されないかも、自分で決めろってことです。救われる、救われないを、「上」の判断や、神様の判断に、求めてはいけない。この許す許さないも、すでに、幹部や、「秀明会」自体も、持ってないということです。これを、しっかり、根付かせなくてはいけない。「許されなくなる」この言葉が、問題です。

「許さない」のは誰でしょう。そもそも、その「許さない人」に、その「許可、不許可の権限」を、与えたままでいいのでしょうか。これが、新体制の一番の問題で、今のところ、こページで、取り組んでる信者は、ギルドさん、ひとりです。

今までの古くなった、ルールを捨てて、新しい白紙ベース=ゼロベースで、「自分はどうして行きたいのか」を考えぬかれたから、ギルドさんは、「幹部の不正問題」に、着手できたのだと、考えます。


「対話可能性」について

>秀明会本部からも批判に対する反論の方法を組織として指導していないので、個人レベルでは到底反論などできない

「反論できない」つまり、「不正問題」に対して、「謝罪」できない。「対話」できない。社会側から、見れば、秀明は「異質」だし、秀明側から、見れば、社会が、「異質」だしで、「秀明信仰」を、介して接した場合、対話が不能な状況にある。

信者でも、もちろん、社会で働いているので、日常的なことに関しては、もちろん、話はできるが、「秀明信仰」を仲立ちにした場合、深くて長い溝ができてしまい、「幹部の不正問題」や「謝罪問題」が、まるで、進まない状況に陥ってしまう。

信者の人は、社会では、「相対性」、宗教では、「絶対性」という、二重性、二面性を、持った精神構造で、生きています。でなければ、紙に、宿った神様を「おひかり」として、大事にしたりは、できません。

社会に、反論できなくても、「秀明会」の中では、内側に閉じた「反論」だけが、しっかり、根付いている。これを、洗脳ともいえるし、「幹部の不正」ともいえる。沈黙している=反論できない、または、ギルドさんのように、会の不正を、正そうとしない、ということは、やはり、本当の意味で、新体制=白紙を、できてないということなのでしょう。ギルドさんの書き込み、見て思ったのですが、この「許す、許される」「救われる、救われない」「御心に、かなう、かなわない」のアンテナを、会の常識ではなく、外部の自由空間=セカイ=ウチュウに、伸ばして、そこから、キャッチできた「良心=神様的なもの」を、基盤に、信仰されていくのが、「対話可能な信仰者」を生んでいくのだと、感じました。

「反論」がかえってこない、「反省」がかえってこない、「対話不能」だ、という、やばい状況を、クリアするには、信者の人々が、少しでも、新体制を実地に、「信仰」することが、必要になるのでしょう。

ギルドさんは、多くの点で、「新体制」に、合致されている。自分で考え、旧弊のルールに、気づき、それを、乗り越え、白紙状態に、戻し、何に従い、何をすべきかと、考えたときに、幹部の不正問題へ着手し、しかも、「許される許されない」という、信仰の根本を、秀明の閉じた共同体でなく、「良心=自分の胸の中にいる観音様」に照らし合わせて、「御用=行動」する、という「離脱=自主独立」的な、領域まで、達しておられる。つまり、「対話可能」な人。問題が、あれば、話し合いの結果、問題解決に、向けて、軌道を修正、または、軌道の意味自体を、考えることのできる人として、「社会=第三者側」から、「信用」されるようになってます。

「信用」されることで、必要なのは、「対話可能」であることなんです。「信用」されないのは、「対話不能=反論ができないこと」なのです。

「社会側=第三者側」は、「論議」を通して、問題点を、詰めていくとともに、「対話不能」だけど、一点で、「対話可能」なのもだと、認めて、「グレーゾーン」を、広げていくことも、大切かと思いました。対話可能な「グレーゾーン」の代表が、ギルドさんだと思います。「秀明」の信者も、可能なかぎり、この「グレーゾーン」で、「新体制の自主的信仰」をすることで、「会」は、まともになってくかな?と思います。

「言語闘争」は、不毛だ、とのことで、沈黙してしまう。反論しなくなってしまう。ということでは、社会への負債は、どんどん、累積していきますし、「曇り」は、どんどん、増えていきますし、挙句の果てに、「秀明会」が、財政困難に、陥ってしまうと、「審判=神は、許さないよ」が、発令してしまうかもしれません。

だから、一般信者の人が、ギルドさんみたく、この「不毛」な「みたまの闘い」に、参加してくれれば、早めに、不毛の土地を開墾できる可能性が、出てくるかなぁとは、感じます。

まるきり、異質なエフェクト効果が、頭の中で、渦巻いてる、2者間で、一体、どのような一致=対話可能性を、導いていけるか、というと、やはり、ひとりでも多くの人が、古いエフェクトから、抜け出して、新しいエフェクトに、切り替えていくとことだと、思います。
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# by punyoon100 | 2005-07-06 10:14
[1100]「荒魂信仰(あらたましんこう)」と「憑依」
punyoon
2005/6/30 4:16
 これも、ひとつの参考です。

 ギルドさんには、離脱的位相に、立ち続ける「フリー信仰者」として、秀明の「試金石」として、今後も、活躍していただければ、と思っているので、以下は、参考まで、何かの弾みに、一般信者が、読んでしまった場合用に、記入します。

 私は、学生のころ、思想や、宗教や、哲学を、ちょこっとだけ、かじる場所に、在籍しており、あまりにも、難しく、頭の中が、ごちゃごちゃしてしまったため、「岡田氏」の単純な、世界に、惹かれてしまった、という点もあるのです。

 そして、どっぷり、はまりました。奇跡も、感じました。浄霊の実践中に、感謝ノートを、付けると、ボールペンの筆跡に従って、頭の脳みそに、筆跡をなぞるように、快感まで、走るのです。

 浄霊では、温熱を、感じました。受けても、するときでも、感じるのです。身体の、悪い?ところに、エナジーが、入っていくのを感じます。また、相手の身体の、どこに、エナジーが、入っていくかも、感じます。

 そういえば、浄霊を、1日100人、約1年間つづけたときがあったので、短期間で、3万人から、その前も、含めると、5万人の「浄霊」を行いました。一日やっていると、数が、増えるほど、パワーが、増していきます。10、20、30、100、回数ごとに、変わっていく。また、気のせいか、切りのいい、数に、達すると、天気さえも、変わっていくのを、感じるのです。(シンクロニシティ的感受性)第3の目に、手をかざすと、エナジーの波動のような棒みたいなものが、さくっと、入るのです。「びにゅーん」なんて、電気的エナジー、分子の振動のようなものさえ、感じてしまいます。そして、1日が、終わり、翌朝になると、全身が、よれよれになっているのです。マッサージしすぎて、揉み返しが、きたような感じです。浄霊が、足りなくなると、悪気のようなものが、頭を、膜や、煙幕のようなものが取り巻いて、重くなります。拝読すれな、光が、ぎんぎんに、注入される感じがあります。電池が、充電されるように、身体さえ、軽くなります。

 ただ、もともと、この信仰は、なんなのだろうと、いう、疑問は、持っており、日本思想や、日本の土着信仰の講義を、受けていたときに、「荒魂信仰」というものに、この信仰は、分類されるなぁとは、ずっと、思っていたのです。

仏教、儒教、キリスト教、神学、イスラーム、西洋哲学、東洋哲学、神仙思想、井上円了、右翼思想、左翼思想、シャーマニズム=巫女=イタコ=ユタ、神道、ちょっと、かじっただけでは、わかりませんでしたが、「会」の基本が、「鎮魂」にあることは、間違いなかったのです。

「先祖」「血縁」「霊線」の「生死」問わずの「鎮魂=魂の浄め」が、基本になっているからです。これは、日本国の中に、脈々と息づく、土着思想なのです。死んだ人間が、「荒ぶる魂」として、生きてる人間に、悪さをする。それを、祭る。「菅原道真」「平将門」「戦没した英霊」みな、怨恨を抱えて、死んでいった、ある意味での悪霊。つまり、神社の中に、眠っているのは、わけのわからない「妖怪=化けもの」を、「神」として、祭っていたのです。

「岡田茂吉氏」が、日本各地を廻り、神社の神々に、挨拶して、廻る、箇所も、出てきますが、発想としては、日本の伝統に、基づいています。日本は、「霊信仰」の国なのです。土壌として。「霊」を見たり、感じたり、話の仲介をしたり、ある種の霊的媒体=霊媒の伝統が、底辺では、続いてきました。これは、世界各地に、散見できる、「シャーマニズム」と呼ばれるものです。

仏教や、キリスト教を、輸入しても、本場オリジナルは、この国には、根付きませんでした。仏教は、霊を、認めません。「色即是空」です。「現実」と「空」が、表裏一体なのです。そこには、「霊」が、介在する余地は、ありません。

日本仏教は、そこを、改変して、霊を、仏教に、接木しました。そして、生きとし、生けるものに、輪廻する、死生観が、日本の深層心理には、根付いています。だからこそ、秀明信者は、霊層界を、気にかけるのです。動物に、生まれ変わりたくない。現時点で、魂が、動物レベルに、落ちたくない。日本国の土着的深層心理が、働くから、ある程度、受け入れられてしまったのです。

ただし、この人間と、動物に、階級差を設ける思考は、西洋の、キリスト教のものです。日本に根付いていたものには、生物に対して、階層的な上下を設定していません。

話の流れは、ごちゃごちゃですが、資格者、助教師、世話人の一般信者レベルでも、霊的な人は、わりと、います。「霊を、見えてしまう、感じてしまう人」が、結構いて、それに、み教えや、信仰体験、浄霊体験を、加味して、感謝として、語っている方も、多いです。さすがに、笑顔で、語られると、ちょっと、引きますが。ただ、それは、それで、いいんじゃないかとも、思うのです。個性です。面白いです。ただ、それで、秀明が、正しいことにはなりません。何故なら、彼ら、彼女らは、日本文化の末裔だからです。それは、イタコや、ユタなど、霊媒の歴史を、持つ、文化的遺伝子を、受け継ぐ子孫たちだからです。だから、その「霊」を、感じるのは、正しいかということにはならないのです。

根源的レベルで、文化的な、マインドコントロールが、行われているに、等しいからです。(語弊が、ありますが)自分の血となり、肉となっているものでさえ、「憑依」されるのではなく、「猿まわし」の役割りに、なれるのが、文化を受け継ぐ際に、大切な心構えではないでしょうか。

「洗脳」とは、「憑依体質=トランス体質」への変換や強化でもあるのです。物の怪とは、物に憑かれること、古来、日本人は、生物だけでなく、物にさえ、魂を、認める、「アニミズ(精霊信仰)」民族だったのです。これはこれで、趣味としては、面白いですが、だからといって、本当に、物に憑かれるのが、面白いわけありません。勿体無いオバケとか、カラカサオバケとか、イッタンモメンとか、そんな輩に、いちいち、憑かれて、指図を、受けたくありません。ただ、信者は、憑かれてしまっています。「紙」に。紙という物に、です。

世界に、溢れる怨恨を抱えた悪霊=荒ぶる魂の浄化によって、浄い、「地上天国」を、建設するというのが、趣旨のようですが、この「荒魂信仰」と「憑依」のレベルの信仰を、世の中に、広めていいわけがないと、私は、感じるのです。その2つは、「こっくりさん」と、同レベルのものです。

世の中に、悪魔崇拝や、黒ミサなどとという、カウンターカルチャーも、存在しますが、衝撃による、常識の破壊による、酩酊感、トランス感覚を、基本にしています。そこで、「霊的約束事=マイナールール」を、吹き込むのです。縛られます。身動きとれません。危ない話なのです。

結局、話が、どういう、方向に、進んだのか、わからなくなりましたが、「霊」「奇跡」「浄霊」というものは、太古から、伝わる、土俗的なもので、別に、珍しくはなく、どちらかというと、過去の遺物であるということです。


70~90年代、入信者の特徴としては、「空虚感」というものが、動機をしめていた傾向を、感じました。感謝のデモンストレーションや、前会長の「講話集」などからです。「規範」の「喪失」ということからくる「不安」、漠然とした「不安」などです。

昔ながら、古きよき、道徳規範が、単純には、機能しなくなってきた、時代の特徴です。敗戦によって、日本的道徳は、打ち崩れ、世界的にも、ベトナム戦争、学生運動、浅間山荘事件、ニューエイジ、新興宗教ブーム、オウムサリン事件など、新しいシステムや、魂など、よりどころを、求める、動きが、強まりましたが、無規範=アノミーという、ココロの枠、よりどころを、喪失して、漠然とした不安を抱えた人たちの動きでした。

地縁共同体の喪失が、拍車をかけています。これの受け皿となったのが、新興宗教です。単純かつ、シンプルな規範によって、精神の座りがよくなる。よい、わるいが、はっきりしている、社会に、合致するするかいなかを問わず、共同体の中では、規範が、機能し、ある程度の心地よい関係を形成できる。その代わり、自己犠牲も、要求される。

ついでに、霊的なことも、くわわり、独自な共同体となって、社会と、根源的なところで、対話不能となる。

閉じた共同体(たとえ、外で、働いている人がいても、根本的な信念のレベルでの対話不能、相互了解不能)の中で、信仰を、実践していくのは、心理学的には、行動療法にあたります。行動に、価値をおくのです。これは、ある程度、人を、点数制で、動かすのです、明るくなったりする人もでてきますが、一般的には、心理的軋轢や、負荷が、増えていくので、あまり、勧められた立場(方法)とはいえません。

と同時に、一番の問題点としては、行為の意味を考える。行為の枠自体の是非を、考えるということが、なおざりにされて、ブレーキも、きかなくなってしまう、危険な点も、あるのです。

「紙=神」に、憑依されつづけるのは、危ないと、感じます。その紙には、誰かが、恣意的な物語を、簡単に、記入できてしまう「霊的(不可視)なツール」なのです。私は、「霊的」=「情報の組み方」と考えています。自分のOS(オペレーティングシステム)を、どう、作るか、これが、大切だし、「信仰」なるものに、従事して、変に間違ったことをしない、基盤になると、思うのです。

だんだん、ごちゃごちゃ、意味不明になりましたが、意味不明なことに対しての、耐久力をつけることも、大切だと、感じます。手品に、感動したからといって、マジックに、簡単に、飛びついてはいけない。

「わからない」状態での、自分のオリジナルな、感性を信頼する。「神」に、侵食されてない気持ちも、大切にする。意味づけというのは、ある程度、いくらでも、つけれます。

ただ、「岡田氏」の書かれてるものは、そうレベルの高いものではありません。「霊的国のアリス」として、宗教参加者=信者を、おとぎ話体感ゲームに、没入する上では、役立っていますが、思想のレベルでは、正直、世界的に、残っていけるレベルではありません。

他の、新興宗教を見れば、類似の構造が、透けて見え、そうそう、オリジナルなものでないことが、わかります。

などと、ひどいこと、書いてますが、ギルドさんには、信者が、まずは、理解できる、目に入れることのできる、み教えレベルからの、「会」の洗脳解きと、体制の革新に、力を入れて頂きたいと、思っています。



[1098]参考までに、ということで、気にしないでください。
punyoon
2005/6/29 21:48
>正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、信仰の持続も離脱も自由

離脱も自由ですし、「正しい信仰」とは、果たして「岡田氏」の提言する「信仰」が正しいのか、または「信仰」と認定してよいものか、どうか、との視点も許すということです。

>処が邪神はこの隙を常に狙いつめているので、得たり賢しとその隙に入り込みその人を占領し、肉体を自由自在に操るようになるので、実に危い哉というべきである。

これは、要チェックです。隙を見せると邪神が入り込み、「肉体を自由自在」に操る、ということを書き残せる人が、果たして、まともな人間、または、神といえるのでしょうか。
実はこの状況は、秀明信者は皮膚感覚で知っているのではないでしょうか。この皮膚感覚を、第3者から見た場合「マインドコントロール」といいます。
ここまで感じてくれれば、かなり完成です。
そして、この皮膚感覚の対極にあるのが、「奇跡=心地よい体感」です。この部分を、信者の深層に、植え込むこと、これがポイントになっているのです。

あと、「私の書いた文字を粗末にすると神の命が宿っているからお気付けがある」という「み教え」について、聖教書に載ってる言葉も、「トリガー」です。
まず、この点、この部分を一般人は、ありえないということで却下します。
ただ、信者になると、「おひかり」を首にかけるなど、「会」に対して自分の立場を譲歩することで、自分の「前提」が変わってしまったことに気づかない。
どんどん、肉体から魂がフライトして、「奇跡」と「恐怖」の両義性を持った「スピリチュアルワールド」に、フライトしてしまう。
肉体の制約を受けない「精神」には、情報を与えさえすれば、それは、「本当のこと」として、「リアル」に感じられるようになってしまう。
この肉体から離れて天井から自分をながめてるような、現実感の希薄化した状態を「離人症」といいます。
そして、霊があるとする人たちには、感じたり、見たりもしてしまう「ホラーチャンネル」さえ、出現してしまいます。
岡田氏のいう「正しい信仰」というものが、彼の言葉から見れば「黒魔術」と「白魔術」の合わさったものであるのは、傍から見るとよくわかるのです。「黒=恐怖」を設定するから「白=奇跡」も出現してくる。強力な「催眠」です。
しかも、「信仰」として、「催眠」のスイッチが、「おひかり」や「拝読」や「浄霊」や「信仰のレンズ=偶然を必然として生活の些細な機微に神の動きを吉凶ともに、感知する精神的姿勢=シンクロニシティ)」によって、再度、「催眠」が、起動するように、恒常性をもたせてあります。
心と体を、わしづかみにして、自分の箱「世界」の中にいれてしまう魔術=鎮魂帰神法、こういう心霊研究が盛んだったのが大正時代です。
人間のココロは自在に組み立てられるリナックスのOSのようなものなので、大正時代の代物が、単純であるが故に、今、平成の時代でも、有効であるのです。

岡田氏のいう正しい信仰というのは、岡田さんの掌握している箱の中での信仰で、その箱は、とても小さい、そして小さいがゆえに、霊的物語が大きく見えてしまう。
箱ってのは、魔術=マジックです。その見えない箱を設定するために使ったのが、「光」という墨書き文字を紙のお守りとした「おひかり」であることは、「岡田氏」の身振りを見れば明らかです。

たしかに、まともなことも言ってる箇所もありますよ。ただ、本当(まともなこと)を3割、嘘(変なこと、オカルト)を7割、または、本当(まともなこと)を7割、嘘(変なこと、オカルト)を3割にして話すのは、カルト=この世に存在しない怪しげな主義主張を保持する立場は、薬に毒を混ぜるような形で頻繁に使います。
知らぬ間に自分の思考の前提になってしまい、自分の立つ地面になってしまったため、掘り返す、考えることができなくなってしまいます。
そもそも、岡田氏にこのような「教え」を人に垂れるだけの資格があるのでしょうか。
相手を対象化、まな板の上の鯉にできる視点を持つのが、私は離脱の神意だと考えています。(しかし、ギルドさんには、今のご自分の立場で、ご自分の信仰で、秀明を少しでもまともにしてあげて欲しいのです。
さすがにこの領域までいくと、ギルドさんも承服できないのではないかと、感じるのです)

>自己愛の有無である。神様の為、人類の為のみを第一義とし、自己の利害など考えず驀地に進めばいいので、こういう人こそ邪神はどうする事も出来ないのである。処が少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、この時が危いのである

結局これが、秀明信仰者以外から見ると、どう映るかというと、「自己愛」、「自分が偉い」、「自分の利害」の禁止です。そして、偉いのは誰か。勿論、この標準を提供している「岡田氏」その人です。
結局は、自分より偉い人がでてはいけない。「驀地(まっしぐら)に進めばいい」こういう兵士がいれば、親分としては安心です。身を挺して親分を守ってくれる、お金ももってくる。「使いやすい人材」をつくるための「神」を使った「教え」だと感じます。
正直、考えると、離脱とは、「岡田氏」に変わって、「霊的祭儀、霊界の法則」さえも、でっち上げてしまえることです。
「岡田霊界」からの影響を払拭し、人への影響も、自分の趣味以外としては、決して、影響を与えない。

>自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループ又は信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅し、離反を食止めようとする所謂脅迫信仰である。こういう点が聊かでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。

これは、つまり、離脱時の秀明に対する救世教。そして、現在の秀明にあてはまるのですが、「邪神と断定して間違いない」と、「邪神」の判定を、下しているのは、「岡田氏」その人です。
結局、遠まわしに組織体の中での「異端者」の判定をしている。「小」、「大」問わずに「岡田氏」の「精神的傘下」であらねばならない、というお話になっています。

>自由主義的

というのは、「自己の利害」と「他者の利害」の一致点を探る主義です。「神様の為、人類の為のみを第一義とし」ということで、「自己の利害」を取り上げてしまい、「美しい心」を、注入して、私有財産、生命権なども、「神」が掌中に握ってしまう状況に、背中を押す。ソ連のスターリンに、とてもよく似ている。
「神様の為、人類の為」以前に「自己の利害」を、手放してはいけないのです。

スローガンにのりやすい人たちほど、操りやすいものはない。

かなり、きつい視点かもしれませんが、まず、参考までということで、ギルドさんには、今の反活動を、頑張って欲しいです。
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# by punyoon100 | 2005-06-30 04:23

遊びをせんとや遊びけむ

[1096]番外・梁塵秘抄
punyoon
2005/6/29 8:23
「人格(ココロとカラダと世界の結節点を中心にした、その人の全的システム)=信仰」の脱構築は、クリエイティブなのです。創造なのです。これこそ、離脱の神意=信仰の極意=北斗神拳の奥義といっても、過言ではありません。

トリイヘイデン「幽霊のような子」「タイガーと呼ばれた子」エンデ「はてしない物語」「橋本治の行き方」「貧乏は正しい」「宗教なんかこわくない」宮台真治「日常を生きろ」鈴木コウジ「リング」村上龍「半島を出よ」映画「マトリックス1,2,3」「カンパニーマン」「時計仕掛けのオレンジ」「フルメタルジャケット」「アイズワイドシャット」「エルトポ」「ホーリーマウンテン」日本アニメ「マインドゲーム」

言葉や、イメージに対しての、免疫をつけることも、大切ですし、役者のように、相手の頭に「ありありと、イメージが、浮かぶ」ように、台詞をつかうことも必要ですし、相手や場の空気を飲んでしまうことも、必要です。以上のような、娯楽による「イメージ力」の増強が、変な神さまを、祓い、憑いてしまった、物の怪を、退治する、必殺力にもなります。


[1095]続・梁塵秘抄
punyoon
2005/6/29 8:07
 下の「解離性」についてですが、これを、ある程度の、統合をもった、ゆるやかな、自己システムに、自分で、オーダメードかつ、オリジナルに、一元化するのが、ディプログラム=脱構築です。自分にとってのリアルを、分析し、宗教体系すら、神すら、主神の仕組みすら、健康状態、精神状態、心体の免疫機構すら、聖俗あわせて、作り変えるのが、ディプログラム=離脱の神意=信仰です。「遊びをせんとやうまれけむ」宗教も遊びです、信者が、どんな遊びをして、人生を送ろうが、当人以外は、気にやむ必然すらありません。ただ、本当に、自分は、この遊びでいいのか、ほかに、違う遊びをしたくはないのか、だけは、おひかりが刺さって、明主様=紙に、憑かれてしまった自分と闘って、しっかりと、見極めなくてはいけないところです。(一般信者さんが、何かの弾みで、見てしまった場合に、書いてます。会のシステムごと、革新するには、ギルドさんの存在が、必要なのです。ギルドさんには、そのまま、突き進んでいただきたいです)


[1094]梁塵秘抄
punyoon
2005/6/29 7:54
>「洗脳」という宗教の怖さを感じます。本当に恐ろしい。

実際、怖いものですが、仕組みをしれば、面白いものです。つまり、仕組みが、わかれば、自分で、洗脳を、とくことも、できるし、ちょっとした、仕掛けを、自分にほどこすこともできます。私は、しませんが(燃費がわるいし、反動も強いから)自分で、解くことができるということは、自分で、自分に、「奇跡」を、起せるとうことです。身体、体調さえも、変容させることが、ある程度(秀明程度)はできます(自分的な、主観においてのみ、だってそれは、秀明をやってる上で、みなさん、信者の方は、個人的に、体感してるはずです)どんなプログラムを、もったデッキ(ハードディスク)に、どんなソフト(コンテンツ)を、入れるかだけです。そして、その人間のハード&ソフトを、存在せしめている「人間存在」=「存在」に、触れる人なんて、誰もいません。たとえ、「神」でもです。どんな大霊能力者でもです。「主神」がいたとしても、触れません。それを、触ったという人がいても、それだけは、絶対に、無理ですし、ありえないのです。それを、信じてしまうということは、最初の、睨み合い=気合で、負けてしまったのです。洗脳は、言葉ではなく、最終的には、相手の、気を飲めるか、否かで、決まります。相手を、気をP呑んだあとに、自由に頭の中の、イメージを、こちらの思うとおりに、書き換えて(プログラミング)すれば、よいのです。目に見えないものが、見えたり、感じたりするのは、別に、珍しいことじゃありません。「解離性同一障害」=「多重人格症」=「離人症」の人たちは、みんな、自分にとっての奇跡体験の世界で、いきています。心理学的病名が、ついたからといって、怖れることは、ありません。精神医学では、カルト信者には、このような病名が、冠せられています。だからといって、社会でも、しっかり、働き、御用もしている、信者の方々が、果たして、病人でしょうか。違いますよね。たとえ、病気でも、普通に、生きてられます。つまり、それは、「信仰=奇跡=リアルな幻想=現実よりも、現実度高いフィクション=信者な自己」と、「一般人な自己=エゴ=煩悩=欲望=自由な自己」とに、引き裂かれているだけです。ぶっちゃけ、分裂病なんです。だからって、別に、気を病む必要なんて、ないんです。人には、自分の好きな番組を、見るために、チャンネルを変える権利(思想信仰言論表現の自由)があります。人間は、認識回路を、何か、ひとつ選択しておかねば、外界とかかわりをもてないのです。そのひとつとは、なんらかの形で、自分オリジナルのオーダメードになってます。その自分の基盤の枠組みを、どこに、持っていくかです。霊がるからあるではなく、霊がるチャンネルに合わせた人には、霊が実在します。UFOや、神や、悪魔や、邪神も然りです。だから、かんがえるべきは、体感して、奇跡が、存在するから、それは、本物で、本物だから、信仰するのではなく、もしも、そんなものがなくても、病気がなく、人間関係も、経済面も、問題がなかったら、または、地獄や、審判、天国や、死後のハーレム、天狗、竜神、などなかったら、果たして、「信仰」なるものを、選択して、続けていったり、自分は、するのか、ということです。信者の人々は、人格が、二つに、分裂しています。「信仰」と「非信仰」な自分にです。現代人は、なんらかの形で、多重人格的な生を、送らねばなりません。ひとつの回路では、間に合わないのです。仕事の自分、家庭の自分、不倫の自分、遊びの自分、なんでもない自分などです。ただ、こように、恣意的かつ、比喩的な、多重と違って、明確な、分裂が、見られるのが、宗教=カルトの特徴です。<「信仰=神=秀明=おひかり」な自分>vs<「非信仰=自主独立=善悪の彼岸=オリジナル=自由闊達」な自分>なのです。信者は、自分と戦うのです。「信仰」をやるためでも、「信仰」をやめるためでも。なんたって、「人格」です。奇跡だって、感じます。これはど、完璧な、マインドコントロールはありません。dvdデッキなしで、「スタウォーズ エピソード3」を、見るようなものです。見えます。感じます。起こります。当然です。人間は、それだけ、柔軟なのです。ただ、「会」から、離れると、「魔法=奇跡」が減ります。苦しいです。自律神経のバランスや、恒常性が、崩れるからです。目に見えない麻薬です。モルヒネや、麻酔、を打てば、右足が、もげていても、何もかんじません。心臓を、取り出しても、大丈夫なのです。痛みを、感じる、回路を麻痺させているからです。LSDは、神が見えます。天狗が見えます。亡霊や、先祖や、自分の中に眠っている、イメージ群や、魑魅魍魎、はたまた、アニメキャラさえ、はっきりと、実在するがごとく、見て、感じることができるでしょう。「自分のリアルは、果たして、どんなリアルなのか」これが、問題です。龍や、お姫様のいる、現実の「おとぎ話」は、いつか、おわらせなければ、いけません。宗教=思想は、おもちゃです。おとぎ話です。ただし、リアルです。マンガです。飽きても、捨ててもいいのです。問題は、選択肢を、自分で持てないこと。まずは、選択肢を、自分で、作りましょう。もぎとりましょう。もちろん、信仰をせずに、身体も魂も、精神も、何の問題もなく、生きていける自分という選択肢、あとは、信仰を会にまかせきりにせず自分のスタンスで会長にさえ反抗し嫌なことは神の名においても決してやらない離脱な自主独立した信仰を持つ自分、この2つです。(これは、一般信者さんへの独り言です、ギルドさんには、今の、ペースで、邁進していただきたいです)


[1093]そーすね。
punyoon
2005/6/29 6:58
>万が一でも、上層部との話し合いが持てたとしても、
平行線のまま、決裂するように思えます。

話し合いまで、まず、もっていければいい、と思います。そして、話し合いの結果は、おそらく、決裂には、向こうは、できないはずなのです。どう考えても、秀明会の信者的に、考えても、ギルドさんには、一理ありますし、「アンチカルト」的には、応援状況なのですから。だから、おそらく、論点を、ずらして、ぬるい、講話を、なんなく、かまして、今までの、方針や、教義に、無理なく、吸収できる、譲歩したかにみえる、何も、変わらない、答えが返ってくる気がするのですが、それでも、やはり、ギルドさんには、万全の特攻を、ぶちかましていただきたいのです。それは、必ず、揺さぶりとなり、振動は、「会」の全体に、伝わるはずなのです。思い切り、フルスイングしていただきたいです。

>「秀明会には悪の部分もある。」これを認めた上で助教師以上は秀明会をやっています。

正直、いいますと、これは、一般社会的にいうと、善なのです。これは、資本主義や、企業存在にも、通じるのではないでしょうか。だから、しっかりと、「利潤追求」を、行っていることを、明記すればよいのです。というより、「利潤追求」が、目的です。と、言い切ったら、問題が、わかりやすくなる。企業の目的は「利潤の追求」です。それを、目的は、「地上天国建設(社会、人類の幸福のため)などと言い換え、手段としての、「利潤追求」を、設定し、軋轢を、全て、「主神の深奥なる御仕組み」に、還元して、省みないから、とんでもない、顰蹙と、人道的な負債が、累積されていくのです。「秀明会には悪の部分もある。」ならば、その「悪をやめる」ことが、大切でしょう。目的が、「善」だから、手段の「悪」が、許されるなら、「信仰」やめたほうがいいし、「会」は、解散したほうがいい(これは、ギルドさんにではなく、一般信者へのアジテーションです)。「悪の部分もある」ではなく、「悪の部分」があったら、全て、存在自体が、「悪」だと、みなされるのが、世間や社会や世界なのです。「秀明会」は、マイノリティです。「少数派」です。世界にむかって、行動している会長氏の、きらびやかな報告は、ホストたちに、お金を使っているおばさんが、ウキウキしている、おべっかに、酔っているのと、かわりありません。口先だけ、引き出しさえすれば、それをM、さも、もっともらしく、吹聴すれば、topの威信は、保ててしまうのです。何故なら、金をとるべき、対象者=顧客は、信者たちなのですから、とにかく、心のうちが、どうであれ、「おばさん」が、「世界の名のある人や団体」から、お金を使って、お世辞を拾ってきさえすれば、信者は、盛り上がるのです。その裏、行く末、未来には、「地上天国」かなんか、あるのかも、と、幻影を追ってしまうのです。今、地上天国なのは、信者によって、楽や、利益を、得ていられる方のも、または、信者をやってて、1%の不満もなく、満足できてる人だけです。そして、信者というのは、しっかり、教育されているので、不満は、微塵もないという心持ちに、自分で自分を、追い込まなくてはいけないのです。だって、「不満」があったら、「主神の深奥なる御仕組み」によって、病気の悪化、金銭的破綻、人間関係の崩壊などの、「不幸」が、目に見えない霊的な仕組みによって、厳然として、やってくることになっているのですから。

などと、ごちゃごちゃ、書いてますが、ギルドさんには、頑張って欲しいのです。



だから、古い幹部連中の悪行も「明主様は邪神も使う。」として許容しています。
どんな悪事を行っても、で許されてしまいます。

人にはもちろん、信仰の自由があります。
なにを信じるも個人の自由です。(悪魔でも、天使でも、魔人でも、いわしの頭でも)
だからといって他人の一生を台無しにする信心の宗教は
絶対だめです。



[1089]IMADA氏の会社から、
punyoon
2005/6/29 3:39
現役信者の書きこみ、
ひとつにつき、
一個8千円の報償金つけさせたいものです。
文字数に、関係なく。。


[1088]GAAAAAAN!!!!!!!!!
punyoon
2005/6/29 3:35
>私は、T支部のバス代の件で一番利益を得ていたのは、I田氏とT井氏だと解釈していました。2人が経営していた会社は、このバス代から流れたものから運営されていたと・・・。でも、そんな事、一般信者さんは何も知らないはず。私も知ったとき、とてもショックでした。


[1085]これは、気にしないでください。
punyoon
2005/6/29 0:46
「奇跡=魔法」

「小山一族の洗脳を解く鍵」=「離脱とは何だったか」の洗い出しは、秀明会の「洗脳」を解き、ちゃんと、距離を置いて、付き合える、状況を、生むでしょう。もしかすると、根本は、「目に見えないもの」を、どうするか、にもなるかなぁと。

<感謝が、感謝を生み、不平が、不平を生む、
 「不平」は、瞬間移動によって、霊層界を下げ、
 悪しき、現実を、呼び込む>

 これに、対応した、精神的経済構造を、どう、ゆるめるか。目に見えない存在が、「悪」に対しては、「悪」で、答える。その目に見えない存在は、「神」や「秀明」や「明主様」という、ある種の「カリスマ」や、「真理=自然の摂理」であるという、世界観の中で、「霊的自主性」を、どれだけ、取り戻せるか。「霊的=目に見えないもの」これは、目にみえない以上、手でも触れない。「不可触な聖域」いわば、「おひかり」という、「紙」に書かれた、目に見えないプログラム言語(「不立文字」)。これを、どう書き換えて、「離脱=自主独立=信仰(宇宙に存在する権利)」を、外部や他者やカリスマにもとめるのでなく、自分自身に求める。または、求められるように、書き換えるかが、最終的な、ディプログラム(解く)になるのかなぁとは、思います。ここまで、行けば、どんな、「会」や、「カリスマ」や「正当性」にも、左右されない、「新体制信仰者」が、生まれ、まともになっていけるのでは、と。できることなら、「救世教」と「秀明」の比較から、第3の立ち位置を、導き出せる、展開を、入れていただけると、さらによいのかなぁとも、思います。ただ、段階を追って、進むことも、必要かと思いますので、「秀明信者」に、効く、方法(切り口)を、模索されてるのは、よいことだと思います。


[1084]あ、そーか。フト、思い付きました。
punyoon
2005/6/29 0:25
 感謝が、感謝を生み、
 不平が、不平を生む、
 というモノサシで、
 想念による、「神=会」への、
 好悪により、霊が、プラスマイナスを、
 上下移動する「想念次第」な「仮想体温計」を、
 日々、内蔵し、習慣化しているので、
 信者の方は、思っても、そんなとこには、
 なかなか、つっこみかませないのかもしれない。
 「不平」は、瞬間移動によって、霊層界を下げ、
 悪しき、現実を、
 呼び込むことになってるんですものね。



[1082]バス代
punyoon
2005/6/28 21:19
fujiya さん、
>バス会社から秀明会が貸し切りバスとして多数のバスを借り上げての運行なので1台当たりの金額は相当安く抑えることが可能であるにも係わらず、信者から上記金額を徴収しているのはどう見ても高すぎ、不自然な金額だ。

そうなんですよ。バスの取り締まりのコンちゃんは、新体制になってから、2ヶ月前から、の予約制みたいにしてて、そんなに、本部にいかなくても、いいことになってるはずなのに、バスに対しての、締め付けを強化してたし、
コンちゃん、見てると、金もらってなきゃ、こんなに、バスだけに、関われるわけないのが、一一目瞭然だし、本部よりも、バスに、乗せるのを、重視してるのが、ありありと、わかるので、コンちゃんや支部に、お金を、もうけさせるために、バスに、乗る気なんて、さらさらないなぁって、感じで、かなり、しらけました。
 上は、勝手に申し込んで、あとから、徴収するなんて、ありえないことするし、承諾や、商法の基本を、まるきり無視してるし。

>最初の内は信者から集めた金を秀明会でピンハネし、必要な額だけをバス会社に支払っていたが、
>途中からは全額をバス会社に一旦納め、その後に適当な方法で資金を秀明会に環流させる方式とした。
 こうして蓄えた「ボリバス代」を、ある支部の職員が調べたところ、約1億円になっていた。

東京から、滋賀への、「人の移動」が、支部の「商売」になってるのは、感じてました。このバス代が、きついし、時間の無駄は、めちゃめちゃ、いやでしたし、「きよまる」だの「お心いただく」だの、会の「キャッチコピー」も、だんだん、聞くのが、あほくさくなってしまいました。「本部観光=教祖殿観光」は、秀明の財力源になっているのは、信者生活を、想起してみれば、疑いようもありません。あそこに、何度いっても、飽きるだけです。「奇跡度=魔法度=洗脳度」は、高まりますが。


[1081]ギルドさん、
punyoon
2005/6/28 21:02
ギルドさん、
>離脱の真意を問うことは、秀明会の存在意味を問うことです。

たしかに、そうですね。

>こちらのサイトはいろいろな方が見てらっしゃるのがよくわかりました。今や反秀明会側の主力です。

たのもしいですね。どんどん、進展してそうですね。

>私は現在、自主退会宣言したけれど、まだ信者扱いで、参拝・秀勉の誘いに応じて、話し合いをしてますが。
おひかりはくぎにかけっぱなしです。たまにかけます。

いいスタンスだと思います。
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# by punyoon100 | 2005-06-29 08:44

ペコペコ、ペコロジー


[1073]紐なしの信仰=離脱の神意
punyoon
2005/6/26 3:15
>小山弘子としても、世界救世教に大見得を切って離脱した母親(小山美秀子)のことを思えば到底和解に応ずることはできなかったのであろう。(fujiyaさん)

「離脱」が、「秀明会」の「正当性=正統性」の基盤ですし。実は、「救世教」からの「妨害」という、要因を、つけなければ、「宗教法人」の取得は、めちゃめちゃ、簡単で、誰にもできますし。お役所の、お偉方が、「救世教」が、妨害のため、賄賂を、渡そうとしたき、「こんな紐付きの金もらえるか(記憶曖昧」と、突っ返して、「認証=離脱」が、成立した。ということで、「紐付き」ではない「神との直接関係」が、「離脱の神意」なのですが、現在は、まさしく、「紐付き」になっていおり、体制=制度に縛られる、という悲しい状況になっているようです。ここが、ギルドさんたちが、「世直し」されようとしている、焦点なのかなぁと思ってます。


[1072]なかまつ氏、えらい。
punyoon
2005/6/26 3:02

>なかまつ先生だったと思いましたが、資格者を降りられたそうですよ。(ギルドさん)

きみは、ぼくの見込んだとおり、まともな男だった。


[1071]「秀明被害ネットワーク」
punyoon
2005/6/26 3:00
きいたところで、「秀明」のことで、時間を、使うよりも、別のことに、使おう、てことになったような感じを、ききました。


[1070]fujiyaさんへ。
punyoon
2005/6/26 0:44
申し訳ございません。



[1065]誠。
punyoon
2005/6/25 19:43
人として、人への、「仁義」を通すこと。
その人、の中に、全て、最高神が、鎮座しており、「社会」というもの、形成しています。そして、その人たちは、未来永劫、「会」の方針には、見向きもせず、しかも、すでに、「救われている」のです。


[1064]今、信仰の最先端は、
punyoon
2005/6/25 19:31
 「秀明会」と「社会」の間に、
山積みとなった、諸問題の解決に、向けて、手をつけていくことです。

 資格は、いりません。「おひかり」つけてる信者の方がたは、この御用を、遂行することによって、今までにない、強力な「みひかり」に、包まれることになるでしょう。


[1063]神のこどもたちは、みな、あわおどり。
punyoon
2005/6/25 19:21
 今現在、会にとっての「誠度NO.1」は、
 何を隠そう、「アンチカルト」との「会話」であること、そして、「アンチカルト」から、提起された「問題の解決」に、着手すること、であることに、間違いありません。

 今、「神意」は、「ボーダレス」です。「秀明会」から、「問題」を、付与される時代は、とうに、終わりを、告げました。自分の感受性という、最強無比のアンテナで、「神意」を、受信してください。

 地上天国を、建設したい方。神から、愛されたい方。人の幸せを、祈りたい方。人の幸せを祈ることによって、自分も、幸せになりたい方。信仰を、磨きたい方。名刀になりたい方。死後、天国に、行きたい方。曇りを、とりたい方。浄まりたい方。神意にそって、病気を、奇跡で治したい方。ふるって、ご参加ください。

 いくら、神の子供でも、実際、もう、大人なのです。(一部不適切な表現がありましたので削除させて頂きました。fujiya)しっかり、大人になりましょう。それは、そう、「会長氏」のおっしゃられた、「誠」が、不可欠です。すなわち、人として、人への、「仁義」を通すことです。「仁義」を通さないからこそ、今、「アンチカルト」の文面には、「仁義なき戦い」のカラーに、みちみちているのです。新体制の「みたま」の戦いは、「上」からの「指示」で、動く、「集団戦」ではありません。「個人」の考えで、「霊的な戦い」を、繰り広げる、「ゲリラ戦」いわば、「テロ」なのです。しかも、この際の、信者にとっての「テロ」とは、「アンチカルト」に対して、「仁義」を通すことなのです。


[1062]誠
punyoon
2005/6/25 19:05
「言を成す」だそうです。
これは、言ったことを守る。
すなわち、「約束を守る」ことだと、
解釈され、「会」は、指導していました。
これは、「社会の基本」でもあります。
「社会契約」=「法治国家」は、これが、前提として、初めて、機能するのです。ただ、「会」は、この約束を「社会との約束」ではなく、「神との約束」「会との約束」という方向でしか、考えてません。ここが、「社会」との「軋轢」を生む原因となっているのです。

何で、こうなるのだろう。考えました。生き物は、「利己的なもの」だからです。「上と下」この階層構造が、「会の基本」です。「上」とは、「会」が「食い扶持」になっている人のことです。「会」以外に、生活を、成り立たせる基盤を、持たない人です。それを、「新体制」に、あてはめた場合、「やっぱ、ぼくだって、遊びたいもん」「たまには、息抜きしたいもん」ということになります。「信者」は、「信者」で、「やっぱ、ぼくだって、遊びたいもん」「たまには、息抜きしたいもん」と、やはり、なります。「信者」は、余計な、金銭や労働で、「会」に、縛られたくないと、考え、「幹部」だって、「仕事」だけになってしまうと、悲しいし、「遊ぶ金」も、欲しいので、やはり、信者には、あまりにも、しっかりと、「新体制」を、謳歌されては、困る。このように「利害の対立」が、生まれてしまっている。そして、中には、橋本&今田ちゃんらのように、祭りを、捨て、コンサートにいくことで、「新体制」してしまう人も出てくる。結論「みんな、新体制が、したいんだ」

 しかし、「会」は、2匹の「巨大な象」を飼っている。その「巨大な象」とは、「教祖殿」と「美術館」、生かしておくだけで、とても、「餌代」が、かかる。これが、「みんな、新体制がしたいのさ」に、重く、のしかかる。大きい、インフラ、抱え込みすぎて、今さら、後戻りできない。「あっぱらぱー」と、「宗教」するしかなくなる。しかも、いっぱい、道連れにして、「ハーメルンの笛吹き男」のように。

 「金の使い道」だけは、「第三者機関」から、公正な「会計」を、入れて、「幹部」が、操作できないように、信者が、監視できるようにする。そして、「文句」をしっかり、いえるようにする。これが、大切です。

 だからといって、ギルドさんには、追求の手を、ゆるめてほしくは、ありませんが。


「根絶さん」
>私は、秀明の 信者だった妻と離婚した、40代の公務員です。子供は私が引き取りました。
 原因は 妻の 献金のための借金、と男性信者との不倫によるものです。

 こういう経緯を、お持ちの方の場合、個人的には、法が許さなくても、「テロ」が、、許すと、思います。私は、「殺人すら、可」であると、思います。そのようなことは、おそらくされないでしょうが。「自警=復讐」は、人間にとって、欠かせない、「仁義の戦い」だと、思います。「西部劇」のように。

>人間じゃないのかも知れません。あの幹部ども。

確かにそうですね。ご事情が、事情だけに、これは、なんとか、ご自分の納得のいく形で、「復讐」を遂行されるのも、よろしいかと。

もしかして、逆に、「人間以外のなにものでもないから、幹部は、非人」なのかもしれない。

正直、私は、今まで、「幹部」は、本当は、「いいやつら」なんだと、思っていたのですが、「一般信者」の延長としてしか、捉えていなかったのですが、さすがに、ここまで、「問題」を、放置されていては、「大問題」です。

問題解決の鍵は、「誠」です。まず、「言うこと」です。つまり、「言葉」です。それに、行為が、ついてくるなら、さらに、よろしいです。これだけ、問題が、顕在化しているというのは、「神」が、この「問題」を解決せよ、とのたまっているのです。この「問題」を、感知できないということは、「信仰センサー」が、「曇っている」証拠です。さー、第3の目を、かっぽじいて、しっかり、「問題」を、直視しましょう。今、現在、「会長」小山弘子氏でさえ、感知できていない、この「最上級」の「問題」に。

幹部陣は、いろいろな諸般の事情を抱えているかもしれない。しかし、それは、「会の都合」いわば、「あなたたちだけが、信じる神の都合」つまり、「自分の都合」以外の何物でもない。「自己愛」です。「あなたたちの信じる神を、信じているのは、あなたたち、だけなのです」いわば「マイノリティ」です。「少数派」なのです。人は、自分の器、状況を、自覚することからしか、「成長」できません。まず「誠」に、成長するためにも、しっかりと、「挨拶」をしましょう。

世界は、秀明の信者だけが、生活している場所ではないのです。世界は、世界です。それを、地上天国と、呼びたいのなら、それでも、構いませんが、それは、秋葉原の「オタク用語」と、対して、変わりません。さぁ、外に、出てください。外というのは、外界のことではありません。自分たちだけの常識、神の常識から、出て欲しいのです。自分の頭の中だけの、仮想天国から、一歩でも、でてみてほしいのです。



[1060]根絶 さん
punyoon
2005/6/25 14:26
水戸黄門っすね。
あは。
印籠かぁ。
この大光明が、
目に入らぬかぁ。
ぴかかぁ!て、感じかも。


[1059]HP
punyoon
2005/6/25 14:23
http://www.sapphire-ark.com/top.html
きれいHP発見。


[1057]だんだん、
punyoon
2005/6/25 2:51
話が、みえてきたのですが、
よく、かんがえれば、
信仰と、食い扶持、どっち、とる?
ってなったら、普通、食い扶持、とりますよね。
これは、幹部の利権が、絡んでるので、
かなり、幹部の「信仰」試されるかも?
時空わけめの決戦。
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# by punyoon100 | 2005-06-29 08:42

ららら、神風の夏

[1056]え!? まじっすか?
punyoon
2005/6/25 2:40
根絶さん、
>今度は 秀明の 会長になるんだって・・・。
いいねぇ。。自分の好き放題やれて・・・。
せいぜい 35歳の 玉男 おぼっちゃま・・・。

玉男氏、次期会長ですか?


[1055]か、かっちょえええ!
punyoon
2005/6/25 2:28
>正確な情報をくれる信者さん達は、かなりクールに会を見ています。

まさしく、ギルドですね。

>タイガー、タイガー、じれっタイガー!です。

ん?これって、やはり、タイガー&ドラゴン、見ねば、なのですね。一回しか見てないので、(ちがってたら、あほですが)レンタルで、見ないと。

>「相手は竜神だ。勝ち目ないよ。」

竜神は、所詮、三下です。
観音様は、ユニバース オブ ゴッドなのです。
ギルドさんは、霊的に、無敵です。

>右翼の動き に気をつけろ。

岡田茂吉氏の時から、右翼の上層部とは、かなり、親密な関係があったようですが、やはり、神道ですから、ただし、仁義を、通す男に、無用な手出しを、するような、野暮な右翼は、おりますまい。

>南無観世音菩薩。流れるままにいっちゃいます。

きゃー、爆涙!

>もちろん正攻法でいきます。

男ですね。信仰者ですね。

>だめなら隠し球も考えます。

頼もしい!

>秀明会の役職の人間の心の中は今、葛藤のうずが巻いている状態に感じます。皆さん声に出して言いませんが。

遂に、飽和状態!
神意を、体現するのは、ギルドさん、あなたです!


[1053]月一信者さんへ。
punyoon
2005/6/25 2:08
>実は私は パラグライダーをやってます。

実は、私の、おやじも、地元で、やっております。かなり、長いこと、やってるようで、たまに、あうと、その話を、目をかがやかせてします。楽しそうだなぁ。いいなぁ。かなり、上もまで、いけるどうですね。



[1049]さぁ、ハンドルネームを、
punyoon
2005/6/24 22:12
もちましょう。

(実名でも、かまいませんが)


[1048]★★★
punyoon
2005/6/24 22:04
「十年以上、秀勉講師・助教師をやっていた」
「九龍さん」は、こう、おっしゃられてます。

>でも、なかなか本質はかわりませんでしたね。

何故でしょう。
役付者の方々は、やはり、個としての「感覚」を、持って、「世間」に向けての「自分の言葉」を、作り始めるときなのではないでしょうか。

風あたりの強さでは、おそらく、地球上でも、「極北」に位置する、このページで、どう転ぶか、わからない、「白紙の恐怖」に、怯えながらも、可能性を投機していく。

 「自分の言葉」というものは、何かを、伝えようとして、はじきかえされながらも、はじきかえされた、要因を、フィードバックしながら、泥臭く、作っていくしか、道は、ありません。それなら、少しでも、早く、手をつけるのに、越したことは、ないはずです。もしかしたら、こういう、「スタンス」なら、許せる、という、発言が、ひねり出される可能性も、あるかもしれないのです。

 そうやって、作った「自分の言葉」(信仰レベルにおいて)を、持つことが、増えることによって、秀明の新体制は、絵に描いた餅に、おわらず、リアルに、息づく可能性を、持ち始めるかもしれません。

 これは、「会」から、指令を受けてやることでもなく、「明主様」が、枕元に、立つのを待つまでもなく、「アンチカルト」なんて、無視しておけばいいのよ、という、「会」の「風潮」に、まどわされることもなく、ネットの批判を、見ると、曇るなどという、禁止事項に、惑わされることもなく、「自発的」に、「自分勝手に」行っていくべきなのです。



「sakulaさん」

>私は、いい人を演じすぎた為、結局こころが疲れてしまいました。(でもそうしないと、いけない様な気がして無理してました。)でも会を離れ、一人前の人間に近付けたかな?とは思います。

「sakulaさん」は、この前、脱会された方ですが、
信者のときも、脱会後も、この、ある意味「やさしい」、
ある意味「ゆるーい(すいません)」スタンスを、保持されていた方でした。信者だからって、役職者だからって、別に、肩に、力を、入れる必要なんてないんです。「ゆるく」てもいいのです。

 ただ、問題に、
 向き合うことが、
 すごーく、必要なのです。

布教ではありません。自分の軸に、軽く、体重をかけた「肉声」で、よいのです。


[1047]「トライ&エラー」
punyoon
2005/6/24 21:31
そーですね。
 
 ミントさんは、体調や、精神状態まで、ボロボロに、
なられてしまったようですが、その「姿勢」の真摯さには、やはり、「共感」を、覚えるのです。変えられないところと、変えたいところを、しっかり、個人として、把握されており、それに、対しての「批判」を、かわすでもなく、逃げるでもなく、謙虚に、受け止めてしまったから、言葉の刃をざっくりと、受け、体調を、崩されるところまでになったのかと、思いますが、だからといって、完全に、自分の立ち位置を、変えるでもなく、徒手空拳で、立っている感じが、「相互了解」までに、いたらなくとも、人としての「共感」というものに、たどりつけるのではないでしょうか。

 まずは、役職のある人も、自分の役職を、脇においておいて、主語を、「私」にして、考えてみる。コトバを、繰り出してみる。信者に、語るのではなく、「世間」に、向かって、語ってみる。自分の形にならない、感触や、まだ、ぼんやりした想いでも、どこからか、単語を、ひっぱてきて、言葉を、繰り出してみる、ということも、大事なのではないでしょうか。

 こういうのは、数を、こなしつづけ、粘土のように、こねつづけないと、なかなか、お互いに、一致できる領域まで、たどりつけません。

 秀明の理想「地上天国」が、現実的に、どう考えても不可能で、普段の日常生活の中で、楽しいな、うれしいな、しあわせかも、とも思えるときが、「地上天国」だ、ということにしてしまわないかぎり、「教義」に、無理が、でてしまうように、「アンチカルト」側が、「秀明」を、殲滅するのも、不可能だと、思っています。アメリカ空軍による、「記念大祭」の「空爆」くらい、無理かと、最近、思います。

 そこで、現実的なところで、考えていくと、信者ひとり、ひとりが、「組織」の思惑に、縛られることなく、「主役」になることです。信仰と、世間の狭間に、身をおいて、「世間の極北」=「アンチカルト」と、「対話」してみることです。

 対面の対話も、優れた点は、ありますが、ネット上での、書き言葉での、コミュニケーションの、優れたところは、話すときよりも、かなり、論理的になるところ、また、自分で、自分の考えも、同時に、整理され、未だ、思考の流れていない水路をも、発見してゆけるところだと、思います。



[1040]最近、おもったこと。
punyoon
2005/6/24 4:54
現役信者の方には、やはり、場所柄が、「アンチ」ということもあり、「逆風」も、強く、
「高地」でもあり、「酸素」も、薄く、なんだか「不利」な面も、ありますが、ぶっちゃけ、いうと、「アンチ巨人」のように、「巨人」がなければ、「アンチ」が、存在しないように、「秀明」が、存在しなければ、そもそも、「アンチ秀明」は、存在しないのです。
 そして、2000年の歴史を、持つ、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教などが、今日、まかりなりにも、世界宗教として、認められているのは、対「社会」と、摩擦や、血のにじむような、議論の積み重ねがあって、「ソフィスティケート=洗練」されてきた面は、見逃せません。
 私、個人の見解で、限っていうと、いくら、部外者が、ぎゃーぎゃー、言ったところで、現役信者の方に、参加していただかないことには、実効力が、薄くなるのです。やめたいけど、いろんな霊的な観念が、邪魔で苦しいという方には、ささいな、解毒剤になるような、ヒントを、提供できるかもしれないのですが、もしも、気楽に、信仰を続けたいのだけど、どうしても、「会」の方針的に、負担が、大きくなりすぎる、などという場合は、多少の覚悟も、いるのかしれませんが、このページを、使っていただきたいとも、思います。 
 一般信者が、主役である、教団に、なるべく、自由に、気楽な、変な、拘束性を、なるべく、ほどいた状態に、更新していくためには、外部である、このようなページは、多少、毒が、強くても、有効に、機能するはずなのです。下手すると、ちょっとした、弾みに、主権在神(=幹部)になってしまう可能性が、信者の方々には、多少なりともあるのではないかと思いますが、どうでしょう。安定した、暮らしと、安定した信仰のバランスを、保証していくには、不安を、解消していくには、主権在民(=一般信者)で、神の間に、なるべく、余計な、お世話の、入らない、状況を、つくっていかれたら、よいのではないかとも、思いますが、どうでしょう。
こういう、向かい風の中での、相互の了解事項を、積み重ねていく、多少、泥臭いような、やりとりも、なんだかんだと、「会」にとって、練磨ということで、プラスになるはずです。このまま、世界や、一流など、遠いことばかりに、目を向けていると、一番、大事な、「地」が、弱くなります。そして、本当に、信仰を、考えるなら、「社会=世間」からの、「応答の要請」には、応えていく形を、とらないと、事態は、どんどん、こじれるばかりです。まるきり、違う前提と、立場の人間が、相互了解に、至るというのは、大変なことですが、同じ、日本語を、喋っていても、信者と、それ以外のちまたの一般人とは、お互いに、根本のところで、「異邦人」なのです。世界布教、海外布教などで、語学を、勉強され、異国の地に、飛んでる方も、いるのかもしれませんが、それ以上に、同じ母国語を、喋っている人間と、根本のところで、相互了解に、至る、これがないと、いくら、外国語、一流のものへの参加を、果たしても、それは、「偽もの」だと、いわれてしまっても、仕方ないのではないでしょうか。母国語で、わかりあえなければ、いくら、異国語に、翻訳しても、コミュニケートできる、範囲が、限られてしまうはずです。
そして、最近は、前よりも、多くの、現役信者の参加が、増えはじめました。衝突もありますが、何かが、前進しているのではないでしょうか。気のせいかもしれませんが。そして、これは、おそらく、「会」にとっては、「海外布教」よりも、骨の折れる、しかも、意義あることだと、感じます。結局、他者=価値体系の異なるもの、との、コミュニケーションが、果たせなくては、どんなに、外国へいっても、一方通行で、終わってしまう。だからこそ、この「アンチ」のページのような「他者」と、接触していくことは、「新体制」という「自主性」や、「個人」を、重んじた、「自由」が、テーマの、体制では、非常に重要な、課題に、なっているはずなのです。



[1038]ミントさんへ、
punyoon
2005/6/23 20:34
>本当に、現役信者がここに書きこむことはとっても、とっても勇気のいることなのです。分かってください。

本当に、ありがとうございました。


[1037]京有さん、改行
punyoon
2005/6/23 20:33
了解です。
これから、そうします。
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# by punyoon100 | 2005-06-29 08:39

ミントさんへ。

[1036]ミントさんへ。
punyoon
2005/6/23 20:30
>私は今体調がたがたで精神的にボロボロになっています。punyoonさんの言う、検証=死ねにまさに等しいのです。きのうも一睡もできずに泣き通しでした。

そうなんですよね。信者のときって、心と身体が、直結してて、シンクロ率が、99%に、近いので、心への影響が、モロに、出てしまいますよね。すこし、シンクロ率を、下げれれば、楽になるかとも思うのですが。女性の方は、やはり、泣いてしまわれるのですね。うーん。苛酷だ。精神の免疫機構を、強化すれば、いろいろな、刃から、守れるように、なるのですが、信者さんは、魂というか、神経が、いわば、表面に、むき出しになってるようなものかと、自分の昔の状況を、考えると、思ってしまうので、本音を、語ったときの、刃は、実際に、ダメージを、受ける、近未来の、シュミレーションゲームのように、なってしまうので、かなり、負担を、かけてしまったのではないかと、心配です。それでも、強風に、あおられながらも、立ちつづけていただいて、個人的に、とてもうれしかったです。

>一人でも多くの現役信者
の方に書きこんで貰いたいからなのです。

これは、ほんとに、大切なことです。


>精神がもちそうにないです。そして体の方の病気も
酷くなってきています。

秀明会に、キズがあっても、ミントさんが、そのキズを、負う必要はないのです。自分は、自分なのです。集団の一員である前に、個人のミントさんなのです。そして、いろいろ、ぐしゃぐしゃになっても、巨大観音を、ギルドさんのように、心の中に打ち立てるのもあり、なのです。厳しい契約の神でなく、自分にとって、都合のよい、距離も、いい加減な、しかも、こっちからのツッコミが、可能な、やさしいダチ、または、舎弟のような、「神」を、ゆるーく、心に、抱くこともありなのです。人間、どかで、自分を、肯定していかないと、身体にきます。ましてや、信者の方は、「奇跡」を、感じやすい状況なので、それが、著しいのです。まず、寝て、休んでください。そして、すべて、吹き飛ばす「明るいパンクロック」なノリを、少しでも、想起できると、「悪霊=不安」を、吹き飛ばせる可能性も、出てくるはずです。ゆっくり、お休みください。

自己イメージが、体調にも、心理にも、もろ、影響するのが、「人間は、想念次第」「瞬間移動」の状況なのです。どこかで、「悪い人」になっていいのです。今の自分の状況を、100mくらい、うしろから、見る感じで、タバコを、くゆらせながら、あえて、笑って、大丈夫だよ!と、自分で、自分に、叫んでみたら、苦しみが、ぴたっと、止まるかもです。ただ、心が、変容し始めているのかもしれないのです。グレーゾーンのトンネルを、自我が、通り抜けはじめているのかしれない。

>恐怖心から自分を偽り続けてそして先祖がすがってきているという秀明会の教えにがんじがらめにされて、ここまでやってきました。

これを、ほどいて、ゆるませていくとき、正直、気持ちは、わるくなりますが、確実に、ちゃんと、「教え」から、距離を、取れるようになっていきます。

それにつけても、精神的に、苛酷な状況で、
立ち向かっていただき、ありがとうございました。

>ただ言える事は恐怖心から自分を偽り続けてそして先祖がすがってきているという秀明会の教えにがんじがらめにされて、ここまでやってきました。
それ以上に入信前にすさまじかったからです。
だから怖いのです。

この「恐怖心」が、どういう形で、自分の恐怖のイメージや、記憶と、「教え」とが、リンクしているかを、紙に、書き出して、果たして、そのような、「サイキック」なことが、あるかということを、ゆっくり、考えていってみてください。「新体制」である以上、「教え」が、心の中で、そのように、結びついているのは、必要ないはずです。信仰にも、違反していないはずです。

「奇跡=身体が気持ちよくなる=+」に、対して、「恐怖=身体も、心も、気持ち悪くなる=-」が、設定されてるから、困るのですが。この0に、位置するところに、「教え」があって、浄霊や、参拝によって、自律的神経機構が、やることによって、+、やらないことによって、-に、いくように、習慣を通して、「暮らし」を通して、肉体および、精神、そして、両者を、繋ぐ、または、包括する、「魂」というものが、上下移動するように設定されてます。ただし、個体に、備わってる以上の、治癒力は、発揮できないので、医者に、かかることは、必要なのです。本当の神の力なら、「曇り」などいう、魂の汚れという、概念を、設定せずに、一発で、治るはずです。人間の自然治癒力は、人間の体力という、限界が、生物システムとして、やはり、存在します。本来、秀明は、奇跡を、教えるとき、医療技術との兼ね合いや、中庸なスタンスも、持たねば、とても、危ないのです。

ミントさん、恐怖心や、イメージは、確実に、ほどいて、いくことができます。ただ、それは、人から、いわれると、キズになってしまいます。信者さんの心の中には、明確に、2つに、分かれた、自己像(自分自身)が、二人、いるはずなのです。その二人を、見る、第3の視点で、自分を、見てあげる。自分の心の、無菌状態の中で。外的な、危険のない、精神的に、安定した状況の中で。

自分の中にいる、二人のうち、ひとりは、秀明の教えの自分(感謝の部分と、それに対して、恐怖により、義務になり、おかしいなとも、感じていても、それを、押し殺してしまところも、ある秀明信者の部分)、もうひとりは、入信前の、わがままな自分(これは、病気や、苦痛などでなく、そのときの自分のいいところ、自由なとこの自分が、どういう発想をしていたかを、肯定的に、見てあげる)、
この二人を、明主様の代りに、神の台座に、ご自分が、座って、やさしく、調停してあげてください。そして、この際、大切なのは、「わがままでいい、しかも、通俗的なら、なおいい、エゴや、煩悩や、欲というものを、肯定しているなら、なお、いい」という、枠組み=ルールで、自分の中の二人を、自分が、神=裁判官として、調停してあげるのです。そして、自分には、やさしくしてあげましょう。この際の、目的は、「恐怖心」を、解除することです。そして、それに、反して「奇跡=+=光」を、自分のものとして、咀嚼し、消化してしまうことです。これが、前に、ミントさんが、お聞きになられた、「自分の中に、エナジー、光」を、取り込んでしまうという方法です。あとは、精神のさじ加減で、浄霊を、うけなくても、受けたときのような、または、心よさを、呼吸法のように、精神のバランスとりだけで、行えるようになります。そして、問題がない程度に、医療技術も、平行したほうが、よい、と思います。くわしいことを、知らないので、あれですが。

とにかく、お疲れ様です。まずは、ゆっくり、、ねむってください。精神のスレスレを、飛行とゆーか、歩行とゆーか、思考するのは、とても、体力を、使うものです。よく寝て、疲れをとってください。そして、良く、たべてください。そして、何か、娯楽に、ふれてください。そしてまた、気分が、回復して、気がむいたときは、復帰してみてください。どうも、ありがとうございます。
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# by punyoon100 | 2005-06-29 08:35

「解離性同一障害」

 「解離性同一障害」=「離人症」=「多重人格」

 信者になってしまった人は、基本的に、こうなってしまっている。

 信者と、一般人人格が、遠心分離機に、かけられたように、

 2層に、わかれてしまっている。

 「奇跡」があるから、ということで、

 「組織」の不合理を、感じても、

 なかなか、抜け出せないのは、

 すでに、人格の一部になってしまっているし、

 「信者人格」の自分が、どうしても、いうことを、きいてくれないのだ。

 「信者人格」は、神を、感じ、奇跡を、体感し、

 目に見えないものを、感じるように、第六感が、

 鋭敏に、チューニングされてしまっている。

 体感映画の幻想世界を、現実に、重ね合わせて、

 鑑賞しつづけてしまうのだ。

 これを、外部の人が、外そうとするのも、

 自分で、外そうとするのも、骨が、折れるのには、

 違いないが、その人自身が、外すことを、

 求めた場合、「装着」できたのだから、「脱ぐこと」も、

 できて、当然なわけで、筋目に、そっていけば、

 心に、変な、キズを、残すこともなく、

 ほどいていけるのだ。

 
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# by punyoon100 | 2005-06-28 21:46