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今をときめくカルト宗教の思い出と、脱会時のバッドトリップ&HAPPYについて、殴り書きしていきます。うふ。


by punyoon100

エロテロ

[1135]記念大祭に、参拝した信者の人びと、
punyoon
2005/7/8 23:46
2万8千人の方々が、すこしでも、問題点に、自覚的になるだけで、TOPを、動かせます。

ひとりひとりが、自分の教団の矛盾点に、自覚的になること、改善しようとすること、当事者意識をもって、向き合うこと、急務です。

[1133]ロンドン同時爆破テロ
punyoon
2005/7/8 23:20
 いやぁ、世の中、激しいっすね。
 くらくらきました。
 ハードボイルドで、タフな時代ですよね。
 昔は、戦場は、戦場って、確定されてたような、気もしますが、「テロ」だと、日常生活から、一瞬で、ぱくっと、口をあけた「死」に、唐突に、飲み込まれることもあるっていう、シビアな、環境と、隣り合わせでもあるんすね。

 ご冥福を、お祈りします。

きっと、ひとは、なんでもなく、ただ、平穏で、ささやかで、俗なかたちでも、何気なく、楽しく生きていきたい、だけなんだろうなぁ、と。それが、「爆弾」などで、一方的に、破壊されたときに、大義名分の「正義」が、やってくる。

で、テロの爆弾が、空爆に、変わって、「血」が出て、また、「血には、血をの、聖戦」としての「テロ」が、がぴょーんとなって、そのまま、「泥沼」になるという人も、いれば、テロリストへの資金調達網が、規制によって、寸断されてくことで、最近、「癌」への対処法が、進んでるのと同じように「テロ」も、絶滅できる、いう人も、おったような。

で、社会側から見た秀明の「罪」っていうのは、「地上天国建設」=「理想」=「大義名分」によって、平穏な一般人の自由な心地よさを、壊してしまったことで、しかし、それでも、「奇跡=魔法」によって、「幸せ=感謝」な人もいて、秀明側から見ると社会が与えた「罪」というのは、「神の正義」なので、「罪」じゃないことになってるので、根本的な反省が、生まれようがない。

ということで、脱会者の怒りには、「火」が付いているのだけど、さらに大きく見てみると、社会的な「法」によっては、秀明の「罪」は、法によって、ぶっちぎりの「罪」には、認定されてないので、社会制裁としての「罰」が、未だ、与えられていない、というのが、現状で、結局、「罪と罰」の確定作業は、「草の根」運動に、なってしまっていて、とゆー、すげー、すれ違いな、知恵の輪、メビウスの輪みたいな、ややこしい状況が、出現していたりして。


武ゆかたさんの「奴らに罰を与えよう!!」
って、新鮮だなぁって、私が、感じたのは、
カラッとした、明るさがあるからかもしれないです。
「恨み」ではなく、シンプルな「怒り」だから、
昇華されて、爽やかな気がする。
「罰」かぁ、何かが、明確になる気もする。
「罪と罰」うーん。

秀明の、外部には、やはり、こういう、意識の集まりが、
厳然と、存在しますね。「謝罪」よりも、「罰」のほうが、爽やかなスポーツ感が、でてくるのかも。

「みんなの力で、刑法と競馬法を改正」
こういう、明確な、「外圧」が、出現するのも、
いいのかもなぁ。

団体規制法でしたっけ、「大量虐殺」をした集団という条件で、「オウム」を、狙い撃ちしたのは。

あと、単純に、考えると、今の信者は、普通に働いているので、ずっと、御用をしていたときと、違って、「給料」は、入るので、出費は、多くなっても、ぎりぎり、食ってくことは、可能で、ってなると、今、残ってる人たちは、死んでしまうまで、「秀明信仰」やりきってしまうことは、原則的に、可能で、しかも、結婚して、子供ができれば、「秀明の血筋」は、また、続いてしまうわけで、「利己的な遺伝子」は、生き残ってしまったりして、エンドレスなんかなぁと思ったり。オウムや、イスラームのように。

で、現役信者のギルドさんみたく、信仰しながら、反秀明の立場をとる人もいて、会の中では、少数派のようだけど、氷山の一角で、その不満の層は、けっこう、広い感じも、受け、仮に、うまく改革派の数がふえたとしても、逆に、反体制の人が多くなることで、体制を支えることに、意味が、でてきちゃう人もでてきて、御用することに、今まで以上に、燃えてしまったりして、規模が、縮小しても、芯の強い、突然変異みたいのが、出ちゃったりして、エンドレスになってしまう可能性もあるかもしれないけど、

「罰」=「外圧」の設定と、「内部改革」=「内圧」の設定が、必要なのだろうと。

ぶっちゃけ、新興宗教って、健常者だけでなく、身体や精神に、ハンデを持ってる人たちも、いるので、そういう人たちをも、お世話し、人間関係を、築いている、という点では、ある種の、受け皿になっていたりもして、河合隼雄がいってたけど、新興宗教には、できたら、はまらないほうがいいけど、統合失調症の人など、入院していたり、家族以外、誰からも相手にされないような、状況が、あったりすると、どん底は、どん底でも、新興宗教のどん底の方が、前の、どん底よりも、ましに、見えたときがあったなんて、ときも、あったりして。

分裂病や、精神病の、カウンセリングというのは、結局、何か、話すというのよりも、ただ、場を共有するだけで、治っていったりもして、そう、考えると、「奇跡」というよりも、単純に、人間の「自然治癒力」を、向かいあって、手を、かざすという、形式にして、日々お互いに「のほほんオーラ」を交し合うということを、セットにしてるだけだけど、実際、効果は、あるにはあるのだが、ただ、これに、医学をも、超えた「意味づけ」をしてしまい、必要以上の「価値」を与えてしまったので、「間違い」が、起こってしまった。

信者は、こういう「ゆるい感謝空間」に、浸っているので、「詐欺だ」と、頭ごなしにいっても、馬耳東風だったりもするので、確かに、彼らは、「異質」ではあるのだが、彼の「異質」な世界の前提に、立って、心の動きを、類推して、関わることも大切かなぁとも、思ったりして。しかも、その「異質」は、彼らにとっては、「異質」ではなく、いたって、「当たり前な常識」になってしまってるのだから。

じゃ、何が、あかんのかねってなったら、「感謝を要求してしまうこと」これだな。「必要以上の感謝を要求してしまったこと」。「感謝を待てなかったこと」「永久にでも、感謝を待てなかったこと」(このページでは、当たり前のことっすね)。

ぶっちゃけ、いえば、「おひかり」なくても、人間が、近距離で、手をかざしたりしてれば、なんらかの「気」で、よくなったりもします。これは「当たり前のこと」です。不思議じゃないです。「紙」は、基本的に、関係ありません。それは、「茶道」みたいなもので、「岡田氏」が、形式を、作ってみただけで、「神」の力は、「紙」にあるのではなく、もしも、そんあ「自然治癒力」があるのだとしたら、もとから、人間に、備わっているのです。すりむいても、つば、つけときゃ、治るし、再生能力は、もともと、人体に、備わっています。「おひかり=紙」は、「茶道の茶碗」みたいな単なる「飾り」なんです。この世に不思議なことなんて、ありません。

なんで、こんな、グダグダ、長いのかというと、「外圧=罰法」だけだと、片手落ちだと思うからです。何故、「アンチカルト」のページが、存続してるかというと、未だ、「秀明」への「不平不満」「怒り」が、社会に、漂ってきているからです。つまり、「信者」の中には、困ってる人、困らせられてる人がいるからです。
「限界」ということを、直視すること。その点で、人と、近距離で、向き合う「自然治癒」的な「のほほん時間」を過ごせばいい。そこに、大義名分を、結びつけ、「感謝を、自分から、要求しないこと」

もしも、ちゃんと、「会」を存続させていきたいなら、「内部規制」。幹部でなく、一般信者が、「上」の行きすぎを、しっかり、監督できるようにする。「金」の流れも、掴めるようにする。「体制」=「人間の作った組織」なんだとおうことを、直視して、その内部メカニズムに、自分たちで、「メス」を入れる。

これがないと、「外圧=罰法」は、単なる「空爆」に、終わってしまう。秀明が、カルト的「非常識」を、心理的に、自分で、気づかぬままに垂れ流してしまという「テロ」は、ずっと、続いてしまう。「会」が、横暴だ、もう、自分には、必要ないのに、「地獄」だ、
「天国」だ、「曇り」だ、「先祖」だと、うるさいなどという、苦情が、ネット上や、消費者生活センターを、飛び交うなどという「苦情=テロ実施後の被害」ことが、社会の片隅に、ずっと、伏流しつづけてしまう。

で、それを、聞くと、やはり、関係ない、外部の人間だって、「不快」に思う。まだ、「カルト」なのかと。「労働基準法」ならぬ「御用基準法」を、一般信者は、設定して、権力からの「横暴」から、自分で、自分の身を守り、他の信者にも、下手な「負荷」を与えないということを、しっかりやらない限り、自分たちの「宗教」を、守ることは、できなくなってしまう。

「平和」という、大義名分よりも、日常のささいな「平和」に、力点を置いて、それを、大切に守り抜くこと。これが、大切だと思う。信者でも、ささいな自分の平和を、蔑ろにしてしまうということは、結局、社会や、世界を蔑ろにしてしまうことにも、つながることがある。

信者の人たちの中で、やめる気がない、続けたい、という人たちは、「大義」が、飢えていても、変に、餌を、やらない、与えさせない、という厳しさを持った方がいいと思う。

それで、たとえ、「大義≒お上」が死んでも、ちゃんとした、信仰、神は、心の中に、残るはずだと、感じる。

本当の意味で、「日常に還る」というか、絶対に、「日常」を飛び越して、「大義=地上天国=献金=御用=お上の言葉」に飛びつかない。信仰するなら、秀明が、滅んでも、自分の胸に、神が残るような、姿勢でやってほしい。おひかりが、なくても、神が、胸にいるような、姿勢をもってほしい。

ギルドさんみたく、余分な、横暴を、無視しない、信者が、ふえれば、もっと、社会に、対しての精神的な排気ガスは、減ると思う。で、ミントさんみたいに、会のおかしいとこを、直視し、それでも、続けていこうという、人たちは、それでいいんじゃないかと個人的には、思うのですが、会の欠点を、直視し、考える、信者の増加は、大切だと思うのです。前、あった、信仰2世の子の疑問のように、何故、このページは、批判をしてるのかと、真摯な書き込みがあったり、それで、その批判を、受け入れられなくても、たとえ、続けていくにせよ、信者が、自分の組織の問題点を自覚する、直視する、って大事だと、思うのです。やはり、抜ける人が、多くても、まだ、続ける人は、続けるでしょうし、それなら、その続けるなら、続けるで、問題点を、ずっと、意識しつづける、考え続ける、改善しようと、努力しつづける、とうことが、目の前の、自然農法や、参拝よりも、増して、必要だと、感じたりします。


[1132]おめでとうございます。
punyoon
2005/7/8 23:18
よかったですね。

なんか、熱い風が、吹いてますね。

いい兆候ですね。

あ、みなさん、ちょっとしたら、わたし、長めの、書き込みをしてしまうようなのですが、うーん、もしも、ひいてしまうようなとこがあったら、スルーしてください。
by punyoon100 | 2005-07-10 07:52